根本的な現実へのわれわれの嗜欲を取り戻す
ーもしそういうことが可能だとすればー
そういう力のある小説がここにある。
基調をなすものは苛烈さであって、苛烈さは、たしかにたっぷりとある。
しかもここには強烈な狂躁もあるし、
狂気じみた陽気さもある、
激情もあるし、
興奮もある。
ときとしては、ほとんど錯乱に類したものさえある。
金属をなめたときの後に残る
徹底的な空虚の味のごとき赤裸々な緊張をもって
極端と極端のあいだを不断にゆれ動く振幅がある。
それはオプティミズムをもペシミズムをも超えている。
作者は最後の戦慄をわれわれにあたえたのだ。
苦悩は、もはや秘密の安息をうしなったのである。
・・・
この野蛮な抒情(リリシズム)をもりあげているものは、
断じて誤れる原始主義(プリミティヴィズム)ではない。
それは回顧的傾向ではなくて、
未開の領域への前進的跳躍である。
・・・
もしこの書のうちに、生気をうしなった人々のまどろみを
醒ます震駭的な打撃力が示されているとするならば、
われわれは、
われわれみずからを祝福しようではないか。
なぜなら、われわれの世界の悲劇とは、
まさしくこの世界の惰眠を呼びさますことのできる何ものも
もはや存在しないことにあるからだ。
そこには、もはや激越な夢想がない。
精神をさわやかにするものがない。
眼ざめがない。
自意識によって生じた麻酔のなかで、
人生は、
芸術は、
われわれの手からすり抜けて、
いまや姿をかくそうとしている。
われわれは時とともに漂い虚影を相手に闘っているのである。
われわれには輸血が必要なのだ。
そして、この書でわれわれにあたえられるものこそは
血であり、
肉である。
飲み、
食い、
笑い、
欲情し、
情熱し、
好奇する、
それらは、
われわらの最高の、もっとも陰微なる創造の根をつちかう単純な真実である。
上部構造は切りとられている。
この書がもたらすものには、
われわれの時代の不毛な土壌のなかで根が枯れうせたうつろな枯木を吹き倒す
一陣の風だ。
この書は、その根元にまでわけ入り、その根を掘り起こし、
その下に湧き出る泉を呼びあげるのである。
(アナイス・ニン「北回帰線」序文抜粋)
体力のない子供ならその幼さを傷つけてしまうかもしれない。
体力の奪われた老人ならこの輸血は逆効果かもしれない。
この書のような異物を取り入れて新たな地平にいける精力、持ち続けていきたい。
そう願う。
「ぼくは諸君のために歌おうとしている。
すこしは調子がはずれるかもしれないが、とにかく歌うつもりだ。
諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。
諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる」 ヘンリー・ミラー
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