文明と文化、どちらを希求するか?
司馬遼太郎さんの著作に文明と文化の差を論じたものがある。
『文明とは多分に技術的でどの民族も採用でき、使用できるものを指す。
〜民間航空機に乗ると、乗客は乗組員の指示に従ってシートベルトを締め
禁煙の表示をみるとタバコをのむことをしない。この点、大韓航空でも、
エールフランスでも同じルールが支配している。この現象を文明と呼びた
い。普遍性といってもいいかもしれない。これに対し、文化は特殊なもので
ある。その家の家風、あるいは他民族にはない特異な迷信や風習、慣習を指
す。「たれでも参加できます」というのが文明である以上、文明は高度に合
理的である。しかし人間は文明だけでは暮らせない。一方において、「お前
たち他民族には理解出来まい」という文化をどの民族でも一枚の紙の表裏の
ようにして持っている。従って文化は不合理なものと言える。という以上に
不合理なものであればあるほど、その文化はその民族内部では刺激的である
といっていい。〜』
(司馬遼太郎 「日韓断想」)
僕の今立つ日本ではやはり御多分に漏れず、普遍的な文明を糧としていると
ころが派手に繁茂している。
それは普遍的であるが故に、相性なんてものもなく、好き嫌い等と言うもの
もなく、敵味方なんてのも無い。
ただただ広がってゆく。
そして当の僕はというとそれがつまらなく、文化を売ろうとしている。
但し、それは司馬さんのいうように民族によって区分けされているものでは
なく、個人によって区分けされているものだ。
僕が面白いと想っていいることをアメリカ人が共感してくれてもいいし、
マレーシア人が共感してくれてもいい。
但し、お互いを理解できる共通言語という文明ツールを必要とするのだけれ
ども。。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント