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2004.10.17

なんだか過去の自分に借金をしている気分

部屋の掃除をしました。

前いた会社の給与明細が数年分どっさりでてきました。

今よりなにもわからず惰性で仕事していたくせに、今より水準が高いのです。

あらためて見ると、わかってるつもりでもへこみます。

一時期は昔の自分含め、あんな志もなく、惰性で仕事してるくせに、なぜあんな
給与が貰えるのか?その資格があるっていうのか?と思ったものです。

今では、そんな個人の思いや能力ではなく、

お金を産んでステークホルダーにちゃんと分配できるシステムを構築できていた

大企業のすごさを痛感しています。

今は自分の好きで選んだ道ですが、その分配がまだできていない未完成な場所に
います。

ちゃんと分け前が欲しいからそういうシステムのあるところに行く、ってのは
元の木阿弥なので気が進みません。

そうすると自ずと今いるこの場所をそういう場所にして行かなきゃならんと、
決意を新たにする必要があるわけです。

とはいえ、前の会社に残っていたら、今よりやはり沢山分け前をもらっているわけで、
その分け前の差額をはやく埋めてやらなくちゃ
かっこいいことを言って飛び出した手前、当時の自分にいいわけがたちません。

なんだか、自分の借金に気付かされた気分です。

これでそれができたら最高ですから、ガンバらねば。。

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2004.10.04

安部広房の「壁」に「壁は登るものではなくよけるもの」
みたいな表記があった。

学生時代の記憶なのであいまいだけど。


僕らの固定概念では壁は乗り越えるものっていうのが一般的だろう。

壁が高いほど燃えるってよくいうしね。


だけど、このごろ思うんだ。

壁って乗り越えなければならないのか?

別にそんな必要はないんじゃないか?

乗り越える
壊す
よける

方法は色々ある。

確かに乗り越えることで達成感は得られるかもしれない。

だけど、壁を乗り越える事が最終目的ではないのではないか?

壁のその先にあるなにかを手に入れる為に、

壁のその先に進むために、壁を乗り越えるのではないか?

もし、乗り越えるのが困難だったら、色々他に前進する手段を講じる。

それが例え他人に逃げだしたと揶揄されようとも、しっかり目的を見据え、前進する。

目先の達成感とか目立つ快感だけを追い求めるのではなく。

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幸せについて考えてみた。

もし自分に子供ができたとして。。

もしもまだ見ぬ子供に「お父さん、幸せって一体どんなことなの?」と聞かれた時、
僕はなんと答えるだろう、と考えて、幸せについて考えてみた。

色々考えてみたけど、はっきり明確な答がなかなか見つからない。

ああ、そうだ。

明確に1つに決められないのだ。

唯一絶対の幸せなんてありはしないのだ。

そう気付いた。

日本に八百万の神様がいらっしゃるように、幸せも僕らの生活の中に八百万あるので
はないのか、そう思う。

崇高な目的を達成したこと
が幸せだったり

きれいな意中の彼女を射止めたこと
が幸せだったり

おいしいお酒が飲めたこと
が幸せだったり

みんな幸せなのだ。

そして、純粋な幸せばかりではない、そうも思うのです。

悲しみの中に幸せが潜む場合だってある。
悲しみ、切なさなんかとの化合物として幸せが抽出されることだってあるのではないか?

そう考えると幸せって案外周りに転がっているのだな、と思えてくるのは楽観的すぎる
でしょうか?

要は、その人次第なんですよね、同じ事でも幸せになれるかなれないかは。


あっ、そんな時、子供に言う台詞を思い付いた。

「健やかに成長した君にそんなことを聞かれるなんて、今僕はとても幸せだよ。」

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