「わかる」と「近付く」
前に「literacy」を手に入れたいと書いた。
世の中を自分の規格をつくらずに「わかる」ようになりたいと。
これはあくまでも一人称の話。
これが二人称になったり三人称にあてはめようとすると
「わかる」ってのは無理だって気付く。
わかりっこないからだ。
すべての事象は自分というフィルタを通さなければならない。
人間ってのはそうやってしか事象を咀嚼できない。
だれた大切な人を亡くし、涙にくれる人がいる。
その涙のほんとうの意味なんてわかりっこない。
その涙はその人の色んな思いの化合物なわけで、
それは過去の思い出や、はたまた、現在の境遇や、未来の生活や
そんなものまでひッくるんでしまう。
それらすべてをリストにしてフィルタに通すなんてありえないし、
すべてのその人の経験したものがすんなりフィルタを通るわけも
ない。
だから、「わからない」と絶望するのでもなく
「わからないものなのさ」と達観するのでもない。
全ては「わからない」と認め、それでも「近付こう」とする。
その姿勢しか人間にはないのではないだろうか
好きな人と歩いていると
はっと目を奪われる風景にであった。
太陽がまぶしく、花であふれていた。
あなたが目と心を奪われたその風景は
相手にどのように映っているか、それは絶対にわからない。
もしかしたら、
太陽はあなたの認識している四角に見えてるかもしれない。
黄色い花は赤く見えていることだってないとは言えない。
そこで「相手の見えてるものが感じているのかがわからない」と
絶望を感じるのではなく
「きれいだね」と一歩近付くだけでいいのだ。
そして相手から
「うん、きれいだね」と言われるだけでいいのだ。
自分は太陽が丸くみえていて
相手は四角くみえていても
たいした問題ではないのだ。
お互いが「きれいだ」と思う、その時間を共有するだけでいいのだ。
そう、ただ近付くだけで。
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