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2005.01.22

「わかる」と「近付く」

前に「literacy」を手に入れたいと書いた。

世の中を自分の規格をつくらずに「わかる」ようになりたいと。

これはあくまでも一人称の話。

これが二人称になったり三人称にあてはめようとすると
「わかる」ってのは無理だって気付く。

わかりっこないからだ。

すべての事象は自分というフィルタを通さなければならない。
人間ってのはそうやってしか事象を咀嚼できない。

だれた大切な人を亡くし、涙にくれる人がいる。

その涙のほんとうの意味なんてわかりっこない。
その涙はその人の色んな思いの化合物なわけで、
それは過去の思い出や、はたまた、現在の境遇や、未来の生活や
そんなものまでひッくるんでしまう。

それらすべてをリストにしてフィルタに通すなんてありえないし、
すべてのその人の経験したものがすんなりフィルタを通るわけも
ない。


だから、「わからない」と絶望するのでもなく
    「わからないものなのさ」と達観するのでもない。

全ては「わからない」と認め、それでも「近付こう」とする。

その姿勢しか人間にはないのではないだろうか

好きな人と歩いていると

はっと目を奪われる風景にであった。
太陽がまぶしく、花であふれていた。

あなたが目と心を奪われたその風景は
相手にどのように映っているか、それは絶対にわからない。

もしかしたら、
太陽はあなたの認識している四角に見えてるかもしれない。
黄色い花は赤く見えていることだってないとは言えない。

そこで「相手の見えてるものが感じているのかがわからない」と
絶望を感じるのではなく


「きれいだね」と一歩近付くだけでいいのだ。

そして相手から

「うん、きれいだね」と言われるだけでいいのだ。

自分は太陽が丸くみえていて
相手は四角くみえていても

たいした問題ではないのだ。

お互いが「きれいだ」と思う、その時間を共有するだけでいいのだ。


そう、ただ近付くだけで。

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2005.01.04

「リズム」と「ペース」

すっかりぐーたらしていたら正月も明けてしまった。。
(昨日はひどい発熱、嘔吐、下痢でくたばってましたが。。)

あっ、明けましておめでとうございます。
今年もこのblog、勝手気侭につらつらと書いて行きます。
よかったらおつき合い下さい。


さて、正月とぐーたら(笑)

あんなによく寝て、よく寝転がって、酒のンで、食べて。。

なのに、なのに。。

なぜにすっきり疲れがとれんのだ〜!

って毎年思います。(思いません?)

これは「リズム」と「ペース」に鍵があるのかな?と思い付きました。

つまり、普段の自分が動きやすい「リズム」「ペース」と反する状態
で正月をすごしてしまっているから、やっぱり疲れてしまうのでは?
ということです。

目一杯ぐーたらしても、自分の「リズム」がくずれてしまっては逆に
疲れてしまうのではないでしょうか?

にしても、正月ゆっくり(ぐーたら)過ごすことで狂う「リズム」って
なんなんでしょう?
ちょっと日常の生活を考えてしまいます。

ポイントはonとoff、リズムの強弱、ペースのハイとローをうまく使い
こなせるかどうかだと思います。

仕事とプライベートを別とせず、一緒にした自分の「リズム」「ペース」
を作る必要があるのではないか、そう思うのです。

ちょっと脱線ですが、
仕事に関してのみで言っても、
この自分の(会社の)「リズム」「ペース」に起伏をもたせいかに
バリエーションをもたせられるかが強さの1つの尺度になると言えるでしょう。

陸上競技の中長距離において日本人がまだ、外国
にかなわないところは実践での戦術だといわれています。

タイムでは同等レベルでも、外国勢のレース展開についてゆけないので
す。
遅い展開に急激なペースアップ。アップかと思えばダウン。
その繰り返し。

その動きに振り回され、自分のペースがつかめないまま、その選手の
燃料タンクはからっぽになってしまうのです。

その戦術に対応するだけの数字だけでは判断できないクレバーさと、体力
がないのです。

ここで問題にしている生活においてのリズムやペースとは
いかに外的な要素と自分が折り合っていけるかということです。

外的要素が変わるだけではなく、自分自身心身ともに変化します。

ふと疲れを感じた時、それは「リズム」「ペース」を再考するタイミングなの
かも知れません。

追記。。

「バガボンド」というマンガがあります。
宮本武蔵の物語りなのですが、ただの歴史ものなんて思ってたら大間違い
特に、そっち系のジャンルには普段手をつけない女性のかたも十分に読み
ごたえあるこの逸品にこんな行があります。

宮本武蔵と柳生兵庫之助がお互いを知らぬまま、旅籠の風呂で出くわす場面
柳生「風呂が嫌いかね」
宮本「いかにも」
柳生「俺もだ」
柳生「風呂嫌いの理由を当ててみせようか」
宮本「む。。」
柳生「心の構えー常日頃気と体の状態はいつ何どき斬りかかられても瞬時
   に対応できるよう備えている 猫のように 垢と一緒にその構えま
   で解かれてしまう気がする故に風呂が嫌いかと」

つまり、この剣豪2人は自分のリズムの大切さを知っているのです。

ただ、剣豪さんは寝てても、酔っぱらってても張り詰めているのでしょう
からちょっとわけが違いますが。。

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