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2005.05.29

「いかにして」と「なぜ」

オギュスタン・ベルクという人の著作の中に

『世界を説明し支配しようと努力を重ねる近代は、実のところ、
「なぜ」から「いかに」への置き換えをはかる壮大な転換のプロ
セスに他ならなかった。』

(地球と存在の哲学)

という一節がある。

「なぜ」→「だから」→「いかに」達成するか

ではなく

「いかに」達成するかと「なぜ」は断絶する。

「なぜ」は立ち止まる必要がある。
その結果なにも生まないことだって多々ある。

そうではなく近代は生産の社会だ。効率が大事だ。

「なぜ」なんてのに耳をかしていると生きていいけない

回遊魚のように。

たまに、そんな「いかに」の権化のような人に出会う。

とにかくパワフルに豪快に無神経に鉈を振いながら突き進む
人に。

どんな相手もねじふせて、理想や理念などおかまいなしに
ずんずん、ズンズンと。

さしずめサメのように(笑)

かたや、
僕はいつからか「なぜ」に惹かれるようになった。

でも、ナイーブなんて思われたく無いし、思ってもいない。

突き進むバイタリティがないかた立ち止まって「なぜ」なんて
考えているわけではなく

きちんと「なぜ」からはじまって、しかも「いかに」の社会で
バイタリティを発揮できるようになりたい。

「なぜ」から作っていきたいのだ。


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2005.05.22

ちょっと前、PSP「ピポサルアカデミーア」の広告 に
「このゲームができなくなるほど忙しくなってはいけない」なんてのがあった。

いいコピーだなあと感心したので覚えていた。

これのポイントはひとことでいうとバランスである。
なんのバランスかというとアウトプットとインプットとのである。

仕事=アウトプット

ばかりしていると、アイディアやクリエイティグは枯渇していく。
仕事をしながら学ぶこともあるだろうけど、それは、例えるなら
銃を打ちながら、そのスキルを上げていくことに等しい。

ただ、そのスキルを上げても、弾切れってのは訪れるわけで、
その弾を作るのがインプットである。

単調なベルトコンベアのような右から左な仕事ではなく、
クリエイティブなものならなんでも、そのインプットは色々なことから
ストックできる。
というか、しなければならない。
それによって効果のある弾が出来上がるのだ。

そんな弾作りを僕は「艶を出す」と表現している。
艶がなくなってはだめなのだ。

。。ってピポザルからすごい話になってしまった。。

スミマセン、もちろんゲームやるとき、そんな肩ひじはってません。

っていうかPSPもってないのでピポザルはやったことありません。。


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2005.05.21

デイリー・クイーン

思い出したよ!

センター街の入口にその昔あった、ソフトクリームがおいてある
ファーストフード。

デイリー・クイーンだ!

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2005.05.14

割り切る

割り切る。

今まで色んな場面で使って来たこの言葉。

仕事と割り切る。

割り切った関係。

等。

とにかく、嫌なイメージを昔、抱いていました。
でも、この頃では、人間特有のせつなさを感じます。
そう、その言葉自体に酔ってしまえるような、大人びた魅力さえ感じてしまうことさえあります。

世の中に本当に割り切れている人なんているのでしょうか?

僕の周りにはいないと思います。


        ・・・

人間はその生活のなかで「遊び」という知恵を使って来ました。

例えば、

車のブレーキ。
ブレーキペダルを踏んでも急激にブレーキはかかりません。

橋、歩道橋。
振動を吸収できるようにたわみ=遊びを持っています。

数字上では割り切れるもの、それを現実に物理的に成立させようとすると摩擦が生まれます。

それを避けるよう、解消するために「遊び」の概念は生まれました。

自然をはじめ、人間の外的要素と折り合いをつける為に「遊び」を人間は作って来ました。

         ・・・

それが、翻って、特殊な外的要素との関係になると「割り切る」という手法を使おうとします。

もちろん、その外的要素とは対人間との関係です。

「遊び」という概念は、外部の特定の原理、原則を見極めてゆとりを見ておくことで
外部との摩擦をクリアしようという考え方だと思います。

しかし、これが対人間ですと、色々な感情や、立場などから生まれる摩擦や矛盾が
多く、日ごとにかわることさえあるでしょう。
それらすべてにゆとりを見ておく事はできないのではないでしょうか。
人間は見極めることなんでできないのだと思います。

だからできるはずもないのに、あきらめ、「割り切る」と自分に宣言するのではないでしょうか。

でも、僕は「割り切った」と外部に宣言した、その実、内部のどこかに封印したはずの
余りがあるのだと思います。

心と身体

愛と憎しみ

感情と理論

尊敬と嫉妬

それぞれが割り切れることなく絡み合っているのだと思います。

そしてそれの余りこそ、その人の本心。
若干でも割ったあと残ったあまり、その本心を自分の中でカギを掛ける。

その本心を全て外部に垂れ流してしまうのは子供くらいしかできないでしょう。
逆に、全て割り切るなんて全てを達観した仙人のようです。

僕らはその狭間で生きているのだと思います。

その本音を抱えつつ、「割り切って」歩んでる。

そんな人間というものにせつなさを感じてしまうのです。

ちょっとは年をとった証拠でしょうか。

でも、案外年をとるのもまんざらでもない気もします。

たまには余りと向き合ってみようと思うのでした。

旧ホームページより 2003/12


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違和感を大事に

僕の仕事の1つに

デザインを売るという仕事がある。

ポイントは、そのクオリティの判断基準。

はっきりいって、僕に判断能力はないといっていいだろう。

僕が解するデザインなぞは、一般人がわかるような凡庸な
デザインでしかないわけだから。

僕の今まで培ってきたロジックなんかにはまってしまうデザ
インなんてつまらないのだ。

逆に、僕がすんなり解してしまうデザインではなく、
なんだか違和感を感じるものであるか、

それが結構重要だとも言える。

100%違和感の場合は、僕の非専門性はブレーキとして働く。

そして、30%くらいの違和感だったら、それはアクセルとし
て働くのだ。

この仕事のなにげに楽しいことは、そんな違和感を感じるこ
となのだ。

そんな違和感の善し悪しを判断出来るセンスを磨く事が楽し
いのだ。

メイプルソープの花の写真を

単に、綺麗なお花と鑑賞するでもなく
単に、淫猥だと拒否するのではなく

セクシーだと感じるようなセンスを。


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2005.05.11

快諾ありがとうございます!

プラチナスタジオの長崎訓子様 谷田様 作品の転載を快諾頂きまして
ありがとうございます!


プラチナスタジオ

DaydreamNation

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