割り切る
割り切る。
今まで色んな場面で使って来たこの言葉。
仕事と割り切る。
割り切った関係。
等。
とにかく、嫌なイメージを昔、抱いていました。
でも、この頃では、人間特有のせつなさを感じます。
そう、その言葉自体に酔ってしまえるような、大人びた魅力さえ感じてしまうことさえあります。
世の中に本当に割り切れている人なんているのでしょうか?
僕の周りにはいないと思います。
・・・
人間はその生活のなかで「遊び」という知恵を使って来ました。
例えば、
車のブレーキ。
ブレーキペダルを踏んでも急激にブレーキはかかりません。
橋、歩道橋。
振動を吸収できるようにたわみ=遊びを持っています。
数字上では割り切れるもの、それを現実に物理的に成立させようとすると摩擦が生まれます。
それを避けるよう、解消するために「遊び」の概念は生まれました。
自然をはじめ、人間の外的要素と折り合いをつける為に「遊び」を人間は作って来ました。
・・・
それが、翻って、特殊な外的要素との関係になると「割り切る」という手法を使おうとします。
もちろん、その外的要素とは対人間との関係です。
「遊び」という概念は、外部の特定の原理、原則を見極めてゆとりを見ておくことで
外部との摩擦をクリアしようという考え方だと思います。
しかし、これが対人間ですと、色々な感情や、立場などから生まれる摩擦や矛盾が
多く、日ごとにかわることさえあるでしょう。
それらすべてにゆとりを見ておく事はできないのではないでしょうか。
人間は見極めることなんでできないのだと思います。
だからできるはずもないのに、あきらめ、「割り切る」と自分に宣言するのではないでしょうか。
でも、僕は「割り切った」と外部に宣言した、その実、内部のどこかに封印したはずの
余りがあるのだと思います。
心と身体
愛と憎しみ
感情と理論
尊敬と嫉妬
それぞれが割り切れることなく絡み合っているのだと思います。
そしてそれの余りこそ、その人の本心。
若干でも割ったあと残ったあまり、その本心を自分の中でカギを掛ける。
その本心を全て外部に垂れ流してしまうのは子供くらいしかできないでしょう。
逆に、全て割り切るなんて全てを達観した仙人のようです。
僕らはその狭間で生きているのだと思います。
その本音を抱えつつ、「割り切って」歩んでる。
そんな人間というものにせつなさを感じてしまうのです。
ちょっとは年をとった証拠でしょうか。
でも、案外年をとるのもまんざらでもない気もします。
たまには余りと向き合ってみようと思うのでした。
旧ホームページより 2003/12
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コメント
久しぶりですぅ。
割り切るって言うより私は切り替えかなぁ。
職場と家
友達と大事な人
母であり女であり会社員であり
切り替えしないと疲れてしまうやん"^_^"
仕事に対しての考え方似てるとこあるし
いっぱいコメントしたいけど
また ゆっくり現れます♪
投稿: 夢夢 | 2005.05.21 21:55
その相手の人によって、
自分って色んな側面をもってんだ〜って思いますよね。
なんだかんだいってもそんな関連性から逃れられないんですよね。
兄貴は一生兄貴だし。
先輩はずっと先輩だし。
その関連性がありきで、前提で人間関係って築いてますもんね。
投稿: Anonymous | 2005.05.28 12:10