その光ひとつひとつが生活の単位だったのだ
先日出張で北陸のとあるところへ行ってきた。
無事用事も済んだころにはとっぷり日もくれていた。
車は高速を走る。
僕は後部座席で真っ暗のなかの民家の光が次々と過ぎ去る
風景をぼーっと眺めていた。
そのランダムにあらわれる民家の灯がなんとも幻想的で
ちょっとしたトリップをしていたのだけれど、
あたり前のことにハッとした。
ここではこの民家の灯以外に灯りはなく、
その光の数は確実に人が生活している単位なのだと気付いた
のだ。
家族の数だけ、その光があるのである。
多分その近辺の世帯数とその光の数はかなりの高率でシンクロ
しているのではないだろうか。
僕は東京に住んでいる。
光は民家の光、オフィスの光、店鋪の光、ビルボード等様々だ。
民家にしたって、マンションでは、光を放つ単位が密集しすぎて
おたがいに干渉しあって大きな形のわからない曖昧な集合になっ
てしまう。
家族という単位はそこでは希薄になっているのではないだろうか?
それに比べて、この北陸の地では、光の外は闇である。
そんな社会では、家族という集合が外部からある種の独立性を保
持しながら成立っている。
もちろんどちらがいいとか悪いとかではなく、
ただ、普段気にしないその差、それは実は大きな差なのではない
かと思ったのでした。
そして、善くも悪くも、僕はビルが林立するようなそんなところ
で生まれ育ったのだという自分のルーツを思い出したのでした。
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