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2005.09.25

終蝉

僕は逃さない。

その夏、はじめて鳴く蝉を。

決して定番の夏を楽しむタイプではない。
海もいかず
山もいかず

いつまでも肌の色が白い僕ですが。。

季節の変わり目、それがイベントのようで好きなのかもしれません。

初桜もたいてい見逃しません。

といっても僕の行動半径内の話ですが、桜並木で一番に芽を吹く樹を
みつけるとうきうきします。

ただし

その夏の最後の蝉
その春の最後の桜ひとひら

に気付くことはまずありません。

全ては終わってしまってから気付くのです。

日常から蝉の音が消えてから
桜吹雪きが失せてから

その季節が去ったことを気付くのです。


僕はけっこう大雑把で鈍感なほうだからなおさらかもしれません。

だけど、世の中そんなことが多い気がします。

流れる時のなかで、失ったあとでその事態に気付くことが。

親愛なる人の気持ちが離れてしまったあと
大切な人が他界したあと
病気に蝕まれたあと
環境が汚染されてしまったあと
動物が絶滅してしまったあと


僕らは気付くのです

自分のやってきたことに

自分のやらなくてはいけなかったことに

そして気付いた時にはそこになにものこっていないことに。。

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2005.09.21

テンポ

ああ〜

しまった。。

本を読んでいて思ってしまいました。

その作品は
人びとのかたち』 塩野七生 著

です。

塩野さんの作品は

サイレント・マイノリティ

コンスタンティノープルの陥落
ロードス島攻防記
レパントの海戦

ローマ人の物語

など読ませてもらっていて結構お気に入りの作家さんである。

ちなみに
僕にはちょっとした願望があって、
まったく住む世界も違い、世代も違う塩野さんだけど、
万が一知り合った時に必ず「魅力的な男だ」と認めれもらいたい
という願望である。

ああ、すみません脱線です。。

『人びとのかたち』とはその塩野さんが映画を通して人生の奥深さを
語るというもの。

そのなかで塩野さんと息子さんとのやりとりのなかでこんな一節がある。

「どの作品にも、その作品とテーマにふさわしいテンポがあるのよ。
七人の侍』にはあのテンポが適しているのだし、
シベリアの原野が真の主人公である『デルス・ウザーラ』には、
ゆったりとしたあのテンポがふさわしい。
それどころか、あのテンポでしか、シベリアの大原野は描けないものなの。
若者たちの反乱を描いた『if』と、老人たちの夏の日々を描いた
八月の鯨』では、監督は同じでもテンポが変わってくるのは当たり前でしょう」

これを読んでいて、「ああ〜」と天を仰いでしまった。。

『テンポ!』

『テンポ!』

ああ〜、このごろ自分の生活に欠けていたもの、それがテンポなのだ。

このごろ活字の摂取量が多過ぎて、映像を見る機会がぐぐっと減っていた。
映像だけでなく、音楽でもそう。
作り手のペースに身を委ね味わうという行為が極端に欠落していたのに気付いて
しまったのだ。

実は読書もそうで、じ〜っくり、ゆった〜り長い時間をかけて読むことがむずかしい
日常を過ごしていた。
作者のテンポより自分のテンポのほうがアップテンポだったのだ。

映画もあの数時間を惜しんで観れていなかった。

これではバカンスにいってくつろげないでいるような作品の摂取のしかただ!

もっとらくちんにたのしく観る余裕が必要なんだよな、と、カンジタのでした。

なんか、東京風なせわしないだけの人間になってしまいそうな気がしてちょっと
立ち止まった瞬間でした。

p.s.上記のような願望がある私は決して、決して!
 『男たちへ』は読まないと決めているのだ!
 なんか完全に手の平の上な気がして読めないのである。

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2005.09.10

しっかり、そつなく仕事してりゃあプロなんかい?!

新卒で某外資系の企業に入社して、なにげによく耳にし、

その度に、胸につかえるというか、引っ掛かる台詞があった。

それは

「プロなんだから」

という台詞である。

仕事を仕事とわりきっている風情の人でも
異動でこの部署にきたばかりの人でも

この台詞を突如、真剣に言う人が沢山いた。

「プロなんだから(しっかり!)」というニュアンスで使われることが
多かったのだけど

逆に、しっかり、そつなく仕事してりゃあプロなんかい?!

そんな想いがあった。

そして、、そう想う自分はある確信を持っていた。

「僕はプロじゃない。。」
「ここではプロになれない。なりたくない。」

プロだから仕事をきっちりしなくてはならないんじゃない。
それは発想が逆転している。

好きで、こだわって、深入りして、産み出して、その結果
いつのまにかプロと人と呼ばれるようになるのだ。

サラリーをもらったらプロなんかい?
プロがキャリアアップの転職をするんかい?

僕は苛立っている。

そんなプロが多いこの世間に。

そして、

まだ、まだ、プロとしての深みがたりない自分に対して。。

あっ、そう言えば、その会社にも僕が認めぬわけにはいかない
プロがいた。

徹底してた、信念があった、その人には。

ただ、周りとの温度差、それが故に空回りすることもあった。

もしかしたらプロの第一段階はそんな空回りを体験すること
なのかも知れない。

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2005.09.01

共感しているだけじゃあだめだ

共感、それは、他人となにかが通じあった時にうまれる。

そんな僥倖は、人を呼び広がりを生み出す。


とても大切。


ただ、共感だけでは十分ではない。

それだけではなかよしクラブになってしまう。

横の広がりは獲得できるが、深み、自分の思想、自分のヴィジョンの深度は
自分以上の発展は望めない。

深度を深めるためには、

反対、反発、違和感、拒絶、嫌悪

なんてものが必要になってくる。

それは、自分とその対象とを比べ、闘わせることを意味する。

その闘いに勝利するには、自分を掘り下げなければならない。

いや、負けることさえ必要なのである。

自分というものをぶっこわす、ぶっこわされる。

それは自分が今まで抱えていた理念なりが不十分だということ
を認めるということ。
それは今まで築いてきたところには築けない。
一度ぶっこわさなければ。

共感はぶっこわすことを強要しない。
だから、うれしい、心地いい。

だがそれだけではだめなのだ。


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