僕は本を読んで”負ける”事が好きだ。
『ぼくは、インドでヒッピーと出会うたびに、劣等感に悩まされ続けたのである。
インドのようなところで<生>の行為のみをよりどころとする人間の前に立てば、
行為をいつも表現に結びつけようとする者は、まことにぶざまである。
ぼくに関して具体的にいうなら、ヒッピーに向ってカメラを向けるときの耐え
がたい屈辱感がそれを示す。
・・・
ヒッピーに限らず、世界のどこにでもいる若者の多くは、死の進行中、横道に
それた野ネズミのように、なんとなく中途半端な気持で会社に行ったり、学校
に行ったり、絵を描いたり、文を書いたり、写真を撮ったり、音を出したりし
ているのではないだろうか。
技術的活動はいうにおよばず、芸術的行為さえもしらじらしくて見ていられな
い今日、あの荒涼とした土地に、ひたすら行為を求めているかに見える若者の
中にも欺瞞が見い出されても不思議じゃない。』
『印度放浪』 藤原新也
藤原新也はかの地で23の時にこうやって”負け”を味わった。
それは我らの国に対する憤りでもなく、事実であり、若者特有の、いや、心に若
さを備えた者の悟りであると言える。
僕らが感じる漠とした疑問。
それを彼は<生>の国から輸入してきた。
生と死のコントラストがまばゆい印度より。
死という終着駅がぼんやりとした現代、その途中の駅、すなわち生もぼんやりし
ているのか。
しかし、いくらぼんやりしていても生と死が途切れることはない。
見えなくなることはない。
だから彼の言葉にある真実が、ページ、ページがぶつかってくるのだ。
僕は本を読んで”負ける”事が好きだ。
”負ける”ってことは認められるということだからだ。
相手を、自分を認められるからだ。
そこから築けるものがあるからだ、気付けることがあるからなんだ。
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