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2006.04.23

僕は本を読んで”負ける”事が好きだ。

『ぼくは、インドでヒッピーと出会うたびに、劣等感に悩まされ続けたのである。
 インドのようなところで<生>の行為のみをよりどころとする人間の前に立てば、
 行為をいつも表現に結びつけようとする者は、まことにぶざまである。
 ぼくに関して具体的にいうなら、ヒッピーに向ってカメラを向けるときの耐え
 がたい屈辱感がそれを示す。
 

          ・・・

 ヒッピーに限らず、世界のどこにでもいる若者の多くは、死の進行中、横道に
 それた野ネズミのように、なんとなく中途半端な気持で会社に行ったり、学校
 に行ったり、絵を描いたり、文を書いたり、写真を撮ったり、音を出したりし
 ているのではないだろうか。
 技術的活動はいうにおよばず、芸術的行為さえもしらじらしくて見ていられな
 い今日、あの荒涼とした土地に、ひたすら行為を求めているかに見える若者の
 中にも欺瞞が見い出されても不思議じゃない。』 

                         『印度放浪』 藤原新也

藤原新也はかの地で23の時にこうやって”負け”を味わった。
それは我らの国に対する憤りでもなく、事実であり、若者特有の、いや、心に若
さを備えた者の悟りであると言える。
僕らが感じる漠とした疑問。
それを彼は<生>の国から輸入してきた。
生と死のコントラストがまばゆい印度より。
死という終着駅がぼんやりとした現代、その途中の駅、すなわち生もぼんやりし
ているのか。
しかし、いくらぼんやりしていても生と死が途切れることはない。
見えなくなることはない。
だから彼の言葉にある真実が、ページ、ページがぶつかってくるのだ。

僕は本を読んで”負ける”事が好きだ。

”負ける”ってことは認められるということだからだ。

相手を、自分を認められるからだ。

そこから築けるものがあるからだ、気付けることがあるからなんだ。


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2006.04.15

このひとたちの 音は言葉は

想いを

メロディに、ギターを使って、言霊にできる人が世の中にはいる。
むかっしっからこの人はそんな人だった。

ハイスタの当時からそんな人だった。

元ハイスタの横山健さんアルバム
Nothin' But Sausage
にもそんな言霊があふれている。

このひとたちの

音は言葉は

いつも鷲掴みにする。

鷲が獲物を荒々しく掴み奪うように。

このひとたちの

音は言葉は

いつもねらい撃ちする。

ヒットマンが高層ビルの屋上から狙撃するように的確に。

僕の心を思考を。

Remember Me』の和訳より

自分の過去を振り返る
途切れてしまった友情
ちょっとガッカリもするけど
分かってるんだオレの人生はいつも変化していく

周りを見渡す
オレを取り巻く人々
まるで家族の様に感じるけど
分かってるんだ彼らの人生はいつも変化していく

やがてお前はオレのコトなど忘れてしまうんだ
でも時々はオレのコトを思い出してくれよ

〜〜〜〜〜〜〜

お前はオレにとって大きな存在だった
オレを劇的に変えてくれたんだ
でも別々の道を歩いていった
分かってるんだオレ達の人生はいつも変化していく

こいつらの言葉は時にせつない
こいつらの言葉は時にやるせない
こいつらの言葉は時に毒をもつ
こいつらの言葉は時に憎悪や不信でいっぱいだ

でも、
こいつらの音は時に突き抜けて
こいつらの音は時に健気で
こいつらの音は時に弾けている

まるで
世の中を恨みながら友人を信じるように
全世界の女性を憎みながら恋人を愛するように
人間を疑いながら隣人を愛するように

こいつらの音は僕にパワーを与えてくれる

世界がどんなでも

社会がどんなでも

まじめに考えながら頑にならずシリアスにならず
突き抜ける

そんな処世を

彼らは僕に思い出させてくれるのだ

僕は学生時代(後半だけど)陸上をやっていた時

レース前

つらい練習を思い出すのではなく
彼らの音を口ずさむことで

はじめて陸上の楽しさを知ったのだ

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2006.04.09

一方的な贈り物は遅れて届く

金魚屋古書店の二巻を読んでいて
久しぶりに出会った漫画があった。

アドルフに告ぐ手塚治虫著である。

アドルフ・ヒットラー

彼が作り出す混乱と狂気の世の神戸で話ははじまる。

ドイツ領事の息子アドルフ・カウフマン
パン屋の息子のアドルフ・カミル

親友だった二人が

その時代や、思想や、血筋に翻弄される社会派の漫画です。

この本は十数年前に唐突に僕のものになった。

それまで、仕事帰りにおみやげなどという気のきいたことを
したことのないオヤジが

「おう、みやげだ」

と一方的にくれたのだ。

当時小学生だった自分にはちょっとはやすぎた。
むずかしすぎた。

それは内容が、だといままでそれほど気にもとめずに考えて
いた。

だけど、そうではなかった。

彼の、おやじの真意というか、気持ちがむずかしすぎたのか
も、と今では思う。

なんで『アドフルに告ぐ』なんだろう?
なんでおみやげを買ってくる気になったんだろう?

いったいなにを思っているのだろう?

当時の僕と彼の世界は日常生活でしかなかった。

それがはじめて意識まで降りていったはじめての体験だった
と今では思うのです。

彼という人間の中身をはじめて見ようとした出来事だったの
です。

そんなことを十数年後に思い付く。

彼の思いは遅れて届いた。

しかも、真相は謎のまま。

その人が欲するものを贈る、そこにはその人に対する想いが
詰まっている。
それは瞬時に満たされる。特になにか特別な日のものは余計
に。

一方

一方的な唐突な贈り物には、贈る側の自分の想いが詰まって
いる。
まるで自分を受け入れてもらえるかどうかっていうドキドキ
を味わいたいというはなはだ一人称な告白に近い想いが。
それは速効性はない。
そんな一方的な想いが薄らいだころにわかるのだ。
その贈り物に込められ得るなにかを。

p.s.
その後、また彼はおみやげを買ってきていたのを思い出した。

それは

韃靼疾風録』 司馬遼太郎

だった。

しぶすぎるぞ!

単に自分が読みたかったっていうオチが頭をよぎる(笑)

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