「我が社がなければ世界が止まる」
「我が社がなければ世界が止まる」そんな企業にしたい。
今日6/5の日経の夕刊にこんなことを語るある企業の社長さんが
でていた。
なるほど、イキがいい。
こういう新興企業があらたな地平を作っていく、そこには
熱があり、それにうなされるような興奮がある。
でもね、
僕には想像できないんだ。
そんな世界が止まるような、そんな存在になった時、今度はなにを
目指すのか。
もしかしたら本当に世界を止めようと思ってしまうのか。
自分達が供給するものを、止める、そんな自己否定に近いような形で
自己主張をしたいと思うのか、そんな欲望にすら駆られるのか?
そんな野望の問題点は、それを達成するまでの道程にあるのではなく、
むしろ、その間の熱を興奮を、その後、達成後に行使する場を与えてく
れないところではないのだろうか。
新卒で入社した外資系のメーカーで働いていたころ、ある同期がぽろっ
と素朴な口調でこう言った。
「この会社はここまで全世界に広がって、さらに、これより広がって
いくのって意味があるのだろうか?だれが望んでいるのだろうか?」
企業が、組織が大きく、肥大化すればするほど、その意義は希薄に
なってゆく。
そしてその構成員はその意義をそれぞれ身近なお客さんから各々仕入れる
しかなくなるのだ。
新卒時、大切なのはその企業がなにを産んでいるのか、
ただそれだけだと思っていた。
でも、それだけじゃ足りないのだ。
「尊敬できる人」をクライアントにし、彼、彼女がかっこいいものを
作る手伝いをしているのだ
と思う
と思える
それが大切なのだ。
だって、自分の産んだ、社会にひろげた僕らの成果はお金という報酬で表すことができるかも
しれないけれど、
その実感は僕らの仕事の実感は決して僕らの中からは得られないのだから。
それはクライアントからしか得る事ができないのだから。
クライアントのパーティにいくとそう思う。
僕がその人とやったことは彼のやろうとしていることのほんの一部。
この、「ほんの一部」と思えることが逆に
「おれがおれが」という自己主張を取り去ってくれる。
彼を彼女をアシストしたという念を強くしてしまう。
「おれがおれが」と唱えはじめると
それが競合企業との小競り合いや
短期的な自社の利益しか見えなくなってしまう。
そうではなく、そんな仕事に尽くした人自身が、その対象から満足を分けてもらうような
そんな「ほんの一部」が集まって築き上げる社会。
そこには
野望ではなく希望がある。
僕はそんな仕事をしてゆきたい。
僕がいなくとも世界は動いていて欲しいのだ。
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