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2006.10.15

物語りの種


僕はあるとき

種を見つけた。


ちっちゃくて貧相な種だった。

それは葉も茂らさず、花も咲かせない。

ただ、ただ

強靱な蔓と幹で僕を縛り上げた。


その種には日の光も水の恵みも必要無い

ただ、ただ

僕の時間と共にあれば、それですくすくと育った。

その種の名は

「悩みの種」


というそうな。

それはいつのまにか僕と不可分となり、必要不可欠な僕の一部と化してしまった。

その伸ばした蔓は

焦燥、憂鬱、不安

様々な色形を示し、旺盛に繁茂しはじめた。

その総称を悩みといい、それは僕のそれこそ「種」であった。

それの悩ましいところは


僕の一部と化したくせに

どいつも僕には解決できないものばかりだということだった。
どいつも僕の手には負えないやつばかりだったということだ。

どこか、特定できない箇所で絶えずそれは痛んだ。
どこかもわからず、痛いのかくすぐったいのかもわからないような疼きを僕に与えた。


それに全ての時間を奪われたこともあった。

それらによって

時に欲望の泉がカラカラに乾き飢え
時に欲望の泉に足を取られ溺れた
時に欲望の泉で潤った


時に欲望の炎に身を焦がし
時に欲望の炎で暖をとることもあった
時に欲望の炎で誰かを焼き焦がした

ある時僕は

そんな種に翻弄された後、はじめて

隣の人にもまた、それが埋まり、茂らせていることを知った。


そしてそれこそが

人のその種との格闘が

世に言う「物語り」なのだと知ったのだ。

そして、僕は初めて物語りというものを鑑賞するに至ったのだ。

人はそれとの格闘を、共生を

文字にした
映像にした
音にしたのだ


それらはもちろん全くといっていいほど生産的ではない。

一見無意味にも取れる。


だけど、僕は自分に種が埋まっている限りそれらを旺盛な食欲で
摂取し続けるであろう。

だって、それは衝動に近いものだから。
悩みの種の眠る、震源なんて測りようもない自分の奥底からの
要請だからだ。

作り手も、受け手もそれを共有するために作り、摂取するのだから。

僕はそんな形でしか、自分を操る根源的なものに対処できない人間
というものに哀しさと愛おしさを感じるのだ。


ところで
おとなになり、物語りを摂取しなくなった人がもしいれば、
きっとその人は

「悩み」とよく似たものとのやりとりに始終しているからではないかと
思われる。

それは

「問題」という種である。

この「問題」、「悩み」と根本的に違うところは

自分の中にその種があるか否かである。

「問題」は自分の外部のものなのである。

自分と外部との摩擦のことだから

そこには「解決」「解決策」なんてものが求められるし、
その状況が、外部との関係が終わってしまえば

それは枯れてしまうのだ。

なので「問題」に関する事柄は即時的であり、現代的、時事的なのだ。

社会を越えて、時代を越えてそのまま語り続けられるものはなく

社会が変革すれば、まっさらなものが用意されるのだ。

「問題」という種は焼き捨てるに限るのだ。


おとなになってその処理の仕方の善し悪しが人を評価する規準となる。

それが社会で生きるということだからだ。

だけど、僕は僕の中にある「悩み」の種を如何に育てるか

にも興味があるのだ。

だって、それが

人として生きるということだからだ。


それは決して人に語るなんてものではない

しかし


ここにこんなふうにぽつりと記した独り言を


だれかが共感してくれるほど

勇気を与えてくれることはないのではないか


そう思って


今日もまたここに綴ってしまうのだ。

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