トリックスターのいなくなった夜に
僕は「トリックスター」に憧れている。
「トリックスター」とは
例えば、アメリカ先住民の神話に頻繁に登場するコヨーテなんてのが
代表的な神話の登場人物のことである。
トリックスターは通常の論理では分離されている対立的な項を、
矛盾をおそれることなく結びあわせてしまうために、まことに
トリッキーな行動をする。
このコヨーテの場合だと、もともとが死肉、腐肉を食べる習慣を
もっているために、
生と死という通常の生活の場では分離されている二つの領域を、
自在に行ったり来たりできると考えられていた。
その此岸と彼岸を行き来できるそんな孤高に僕は憧れているのだ。
此岸、今の社会の秩序を全てだと盲信し、それに縛られ絞られる
だけではなく、
此岸に自分の生が、生活があるのを忘れ彼岸に逃げ込むのでもない。
とらわれず、一見矛盾しているものもつなぎ合わせてしまえる、
そんなタネもわからないようなトリックを使えるようになりたいのだ。
さて、「トリックスター」について中沢新一さんが
著書『芸術人類学』のなかで白眉な文章を書いているので、
少々長いが引用させてもらう。
ふつうの思考では、トリックスター的なものはなかなか表面に
出てこないようにしている。
生と死のようにお互いが分離された論理項を論理的矛盾をおか
さないように組み合わせることによって、「正常な思考」がお
こなわれなければならないからである。
ところが、トリックスターが登場してきたとたんに、事態は一
変する。
そのとき、それまで思考の表面にあらわれてこなかった対称性
の知性が浮上して、人々は自分たちをとりまく世界の意味をバ
イロジックによって思考しはじめるからだ。
合理的な判断をそのつど要求される昼間の活動では、人々の心
にバイロジックが作動し出すのは危険なことである(狩猟の現
場では、人間はあくまでも熊の潜在的な敵なのである)。
ところが、夜になって仕事も終わり、外敵の危険から守れれて
いる火のまわりに人々が集まっているときには、彼らの心の内
部でむくむくと対称性の知性が立ち上がってくることが許される。
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トリックスターはこのようにバイロジックの活動を呼び起こす
メディエータ−なのである。
秩序をひっかきまわしてカオスを導き入れるとか、こわばった
状況を揺り動かすなどと語られるトリックスターの属性は、心
の内部でおこるこのバイロジックの呼び覚ましがもたらす事態
の二次的表現にすぎないのではないだろうか。
トリックスターは善悪の彼岸にいる。
それはバイロジックによって思考するときの人の心が、社会が
認める善悪の判断など越えたものごとの真理に触れようとして
いるからなのだと思う。
つまり、バイロジック思考の全域でうごめいている
「矛盾=ねじれ」を集約して、それを神話の登場人物としての
姿をあたえれば、それがトリックスターなのである。
つまり、僕らは昼間仕事なんかをしているときは「正常な思考」を
もとになにかを判断し決定し、循環するという100%此岸にいる立場
をとる。
上記に記されているように、
例えば、昼間の仕事中(狩猟中)に熊に神話的要素なんかを
加味しちゃったらがぶっ!とやられてしまう。
例えば、火事が発生した現場で、火に彼岸を見て、対話なんかを
始めてしまったら延焼はなはだしく、もし、彼が消防士であれば、
職を失うし、当の本人だったら家財道具、へたすると命をも失う
こととなってしまう。
だけど、その循環からはずれる、アフター5(って今言うのかな?)
には彼岸との行き来が本来は許されているはずなのである。
だれでもトリックスターになれるし、もしくは、トリックスターを
従えて彼岸に行く事ができるはずなのである。
そういう意味では僕らは今、どんどん、そのトリックスター的な要素を
失っているのではないだろうか。
残業を繰り返し、此岸の中で、此岸しか見えていない。
そこから見えるもののみを真理とし、有為とし生を全うする。
それは一種の原理主義だ。
僕はそこに違和感を感じる。
だって、今僕のいるここは全能ではないと思っているからだ。
完璧ではないと思うからだ。
この閉塞感あふれる世の中に風穴をあけるうるのは、
ここでしか通用しない、ここで生まれた真理だけなのだろうか。
僕はこのトリックスターのいなくなった夜にそんなことを思う。
トリックスターが飄々となににもとらわれず、
この社会を軽快に駆け抜けていく姿を想像しながら。
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