あの女(ひと)は目的を決めて始めるのが好きでは無い、そう言った。
「この十五年をあの物語の執筆に注いだことが
女の人生としてよかったかはわからない。」
彼女は自画自賛するでも、卑下するでも恐縮するでもなく
彼女はそうはじめた。
「私は目的を決めて始めるのが好きでは無い。
先入観があるとそれに縛られる。」
と。
「目的」とは「目で見える的(まと)」ともとらえることができる。
それはどういうことかというと
一直線だということだ。
だって目で見えるんだもん。
視界内ということだ。
それはとても短期的な考え方だ。
人間の視力と同じように、きっと、目的も遠すぎると、その輪郭はぼやけ
詳細はわからない。
人間の能力なんてそんなもの。
その単体の能力だけでいくら進もうとしてもそれほどの精度は
期待できない。
わからないけど進むとなると、なるほど、それは先入観と訳せるかも知れない。
だから、基本は短期的な発想なのだ。
目的をとっかえひっかえ進む。
それではその軌跡がどうなっているか、どこにいくのかわからない。
そう、拳に酔った矢吹丈の砂浜の足跡が蛇行していたように
それは定まらないのだ。
彼女はそうではなかった。
震源を自分の中に持ち、自分の興味の方向へマストを掲げたのだ。
「なぜ、ローマ人はこれほどまでに繁栄したのだろうか?
よりによってローマ人が?」
視覚をたよりに、見えないものを見えると思考停止して突き進むのではなく
全ての感覚、色々な可能性を調べ、見えないものをすこしずつクリアにしていく
という方法で。
それは道なき道に道を造るということ
地図のない土地に測量にいくようなもの。
目的地を決めるのが最終の希望ではない。
そこに辿りついたら全てがハッピーになるわけではない。
だから、はやくつけばいいのではない。
どんな手を使ってもいいわけではない。
自分という震源が発した波動は、外界からメッセージとして帰ってくる。
それを刺激として、またその震源は波動を発する。
そしてその個体は行きたい方向を見つけさらに進む。
男が抗うことなき女性という性が
自分の震源をしっかりもち、現在、過去、未来に希望をもち、
自分という個すべてを表現に使われたら。
僕らはまいってしまう、以外になにができるのだろうか。
彼女は希望を
現実で割るのではなく
現実で引くのでもない
彼女は希望に
現実を掛けた
彼女は女性としてという枠を超え
人間としてセクシーである。
やはり、僕はこの人のファンである。
塩野七生という人の。
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