主語を意識し、我(が)をなくす。
森達也という人の
『主語のない述語は暴走する』という文章が
ずっと頭からはなれないでいた。
遺族や被害者が憎悪や報復感情にとらわれることは当たり前だ、
なぜなら彼らは当事者だ。
この感情を社会が共有しようとするとき、一人称であるはずの
主語がいつのまにか消失する。
「俺」や「私」が「我々」となり、地域や会社、そして国家など、
自らが帰属する共同体の名称が主語となる。
本当の憎悪は激しい苦悶を伴う。
でも一人称単数の主語を失った憎悪は、
実のところ心地よい。
だからこそ暴走するし感染力も強い。
こうして全体の一部となりながら、いつのまにか誰もが声高になる。
虐殺や戦争はこうして起きる。
でも渦中では、
主語がないから実感は薄い。
誰もが終わってみてから茫然と天を仰ぐ。
振り返ってごらん。
世界はそんな歴史を繰り返している。
こんな主語の不在、述語の暴走を
手塚治虫は『アドルフに告ぐ』でアドルフ・カウフマンという男に
演じさせている。
おれの人生はいったいなんだったんだろう
あちこちの国で正義というやつにつきあって
そしてなにもかも失った
肉親も
友情も
おれ自身まで
おれはおろかな人間なんだ
だが
おろかな人間がゴマンといるから
国は正義をふりかざせるんだろうな
たしかにそう。
僕は
戦争や虐殺、差別やいじめ
がこの世の中からなくなるなんて思ってはいない。
人間はそれほど賢いとは思えないからだ。
きっと虐殺のニュースを聞き、主語をうしなった怒りを憤りを
感じている限りそれはなくなりはしない。
そこに、主語、自分を入れてしっかり思考する、
それが大事。
それにはまったく同意する。
ただ、主語を明確にし、主張する。
それが唯一の手段とも思えずにいたのだ。
僕は常々、人にとって動詞も大切だけれど
豊かにしてゆくのは形容詞ではないかと思っていた。
動詞には主語が必要。
だけれども、形容詞にはそれは必要でない場合の方が多い気がする。
形容詞は自分の関わるものを形容するときに使う言葉だ。
そこには、その対象物に対する興味関心が不可欠だ。
そこには主語は必要だろうか?自分のことより、その対象物の方が
断然大切なのではないだろうか?
それはとりもなおさず、想像力と直結する。
そこに僕は人間の可能性を感じるのだ。
明日の空もきれいでありますように。
明日の太陽も雄大でありますように。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
クオリア日記から、風に乗ってまいりました!
なんてカッコつけるほどのものではございませんが
空と風と雲の流れとお日さまの光と夕やけと…そらの星たちに
無性に惹かれてしまうので…
思わずコメントさせていただきました!
きっと素敵なうつくしい目をした方なんでしょうね~
そのことが、しっかりと伝わってまいりました。
しゃれたことばを残せない私ですが
気持ちの良い凛とした空間を楽しませていただいて
ほんとうに、ありがとうございました!!
投稿: 風待人 | 2007.02.14 00:54
風待人 さん
いらっしゃいませ。
空と風と雲
がくれる癒し。
介入してくれるわけでもなく
問題を解決してくれるわけでもない
あのまっとうな、健全な距離感。
近くて遠い距離感が
僕は居心地がいいと感じる事があります。
コメントありがとうございました。
投稿: Anonymous | 2007.02.22 21:30