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2007.06.30

「リセット」は消去の呪文にあらず




近日

友人がカナダにその生活の拠点をうつす。

昨日はそのfarewell party。

彼とはその場でほとんど話せなかった。

だけど

ひさしぶりに気のおけないメンツがそろい




はしゃいだ。



自分でもあきれるほど内容のない言葉があふれる。




楽しいひととき。




 ・・・


彼は昨年末に会社を辞め、充電期間にはいっていた。
次の進路が決まった、と招集がかかったとき、

「どこに勤めるのだろう」

そう思った。

だけど、彼の口からでてきたのは

「どこへ所属する」という報告ではなく


「なにをする」の報告だった。


ショックだった。
彼の進路に、ではなく、自分の思考の矮小さとちいさくまとまった
自分自身に。

どこかに所属しないと

なにもできないのか
なにもつくりだせないのか
なにも考えだせないのか

完全に思考の死角をつかれた。

その死角を襲ってくれた彼に感謝した。


 ・・・

彼は人生を「リセット」するといっていた。

普通、その活動の場を変えるにあたり、いままで経験し勝ち得た
ものを活用できる道を探る、それが常道といわれる。

いわゆる「キャリアアップ」ってやつだ。

それは「リセット」ではない。

「リセット」には

断絶と飛躍がある。

それには

断絶の先を想像、創造できるイマジネーションと
飛躍できる跳躍力が必要だ。

それには

いままで勝ち得た

鎧のように身に纏った小手先の経験や法則や、を
捨てて行かねばならない。

だけれど

「リセット」は単なる一括消去ではない。
デリートではないのだ。
捨て去るのが、消去が本質ではないのだ。


本当の経験とは

「リセット」という飛躍の際にも持って行くべきものでしかない。

逆にいうと

「リセット」とはその本物を際立たせるということでもある。

上ずみを掬い捨て、本物を胸に、あらたな地平へ向かう。
まさに

「RE SET」再構築なのだ。

「リセット」は消去の呪文にあらず
「リセット」は再生と前進の行進曲なのだ。




 ・・・


彼へのカナダへの餞別に

僕は

中谷宇吉郎の『雪』を選んだ。

中谷は雪の結晶の美しさに心奪われた人。

日本人の美意識を雪というものに投影した人だ。

彼は

雪の厳しさよりも
雪の美しさや、楽しさや、を
語るにふさわしい人だからだ。

そして、遠く離れた彼の地でも

日本を意識してもらえるように、そんな思いを『雪』に
託してみたのだ。






きっと

大変なことの方がおおいだろう。
うまくいかないこともあるだろう。


だけれど


僕はうらやましくてしょうがないのだ。

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虚妄というモルヒネを胸に




    絶望の虚妄なること
    まさに希望と相同じい



虚妄とはなに?

虚妄とは僕らの脳が作った蜃気楼。

自分にだけに見え、他人には見えない蜃気楼。

虚妄とは

楽観的な欲望に直結する、そんな勝手な思いをたしなめる

それが日常、正常人の使い方だと思っていた。


だから、安直にも否定的なものだと思っていた。



    絶望の虚妄なること
    まさに希望と相同じい


そう

それは絶望にも使われる。

そう

それは脳自体。

僕らの念い全て。

虚妄とは

僕らの大部分を構成する連れ合い。


人生を刺激もする麻痺もさせる緊張もさせる衰弱もさせる

ああ

人生の機微はすべて虚妄かと思えるほどだ。


虚妄はリアルではない

虚妄はリアリティがある

でも

虚妄はリアルではない


そうそう

希望も絶望もリアルではない

それはもしかしたら100点の解答ではないかもしれないけれど

リアルではない。

なんだか

気が楽になる。

リアルじゃないものが悩みの種。

勝手に自分で植えた種なのだ。

そんな安心を与えるモルヒネ、虚妄というモルヒネ。




    絶望の虚妄なること
    まさに希望と相同じい

        ペテーフィ・シャンドル(1823-49)





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2007.06.29

基本は「あいこ」

誰かが言ってたよ。

握りこぶしじゃあ、握手はできないんだ。

握りこぶしは誰かに突き出すものじゃない。

ラオウのように、天に突き上げるもの。
ガッツポーズ。

ちょきは孫悟空のように誰かの目に突き出すものじゃない。

ブイサイン。
ピースのサイン。

パーは誰かのほほに叩き付けるものではない。
あの日のあの人のように(だれ?)。

「おーい」と相手に手を振るときのパー。
ちぎれそうになるくらい、振りに振るパー。

そう考えると

グーチョキパー。
みんな「あいこ」が似合うんだ。

相棒のガッツポーズにはガッツポーズで。
チームメイトのVサインにはVサインを。
友の振る手には振る手で返す。

そうそう

「あいこ」だともう一回じゃんけんができる。

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2007.06.17

僕ら「意味」食むウロボロス

とあるデザインの打ち合わせ

「具体的なものはイメージに引っ張られる」だとか
「うさぎ、ではあてはまらないイメージがつく」だとか

煮詰まり

関係者各位言葉すくなになる。



ふと

「意味」というものに踊らされている

そう思う。



人間を
人間の世界を

その根本を形成する

もっとも人間らしいもの



それは

「意味」ではないだろうか。

最高に人間らしい人工物。

神から授かったのではなく自分たちで築き上げたバベルの
断片。

意味というその破片を積み上げ

天を希求するか。





あなたと僕のあいだに
空と僕のあいだに

僕らは

なんにでも意味を振りかける。

なんにでも味の素を振りかけるように

なんにでも意味を振りかける。

「意味ないじゃん」とこきおろし
「意味なんてない」という意味にすら溺れる。



ウロボロス

その精力絶倫の龍は

目に入ったものをなんでも食い尽くす。

山だろうが海だろうが空だろうが太陽だろうが

食い尽くす。

そして、自分の尾が見えたとき

そいつはなんの躊躇も無くかみつく

自分をも食べ尽くすという自己撞着。



僕らは意味を食む。
意味の意味を食む。

その先にはかならず意味を付与することのできない
なにかがあるはずなのに。。。

僕らの脳みそは意味しか産み出せないのか

そう考えるのも意味が欲しい故か。


意味を僕らは越えられるのだろうか。
越えた先にはなにがあるのだろうか。

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2007.06.02

人は開発しては縛られてゆく

誰か

知っているのなら

教えて欲しい。



例えば「夢」という言葉、概念がある。

これは

言葉が先か

それがあったから言葉が産まれたのか。


教えて欲しい。


厳密に言うと多分、そのものがあっから言葉が産まれたのだと
思う。

だけれど、

きっと

「夢」というものが今の姿になるまでに
「夢」というものが産まれてからというもの

絶えず、

人間の手を
人間の文化というものによってか
人間の利害というものに干渉されてか

加えられてきたのではないだろうか。

たしかに「夢」という雛形はプロトタイプは原初から人間が
所有していたのかもしれない。

ただし、今僕らが勝ち得た「夢」は人間が作り上げた、開発
したものなのではないだろうか。

僕ら人間はそうやってものを開発する能力を有しているのでは
ないだろうか。

それがある種「人間らしさ」というものではないだろうか。

なにか雛形を作る
それをベンチマークとして
その解釈を拡げる
深く考えることでその精度をあげてゆく
ディティールを作り込む

それはなにも概念だけではなく

雪の降る地方には数多の雪の種類があり
(雪のない地方にとってそれは1つの見知らぬ気象現象でしかない)
魚を食する地方には数多の魚がいる
(魚の種類に乏しい地方では、食べられる魚かどうかのみ重要かもしれない)
季節を様々に変化させる地方には季節ごとの機微が
(確かブラッドベリか誰かが雨の降り止まない惑星を書いていたが、そんなところでは機微はうまれるはずがない)

そこに棲む人間がくらしのなかで見つけたり、開発したり。

その精度こそその深度こそ
その人間がどれだけそのものと関わりを持ったかの指標となる。

そして、その逆に

僕ら人間は、その開発したものに縛られてゆく。
その解釈から逃げられなくなる。

例えば世の中には音を奏でる道具がある。

例えば鍵盤という部位をもったピアノという楽器がある。

人間は音という概念から、それを発展しピアノを開発した。

そして、ピアノをもって音を奏でる人はその精度を技術を

上げてきた。

そう、その繰り出す音は鍵盤から逃れることはない。
鍵盤に縛られ美を競う。

それは縄張り争いのような趣きがある。

境界を作り、自分の領域を作る。


安定

自分の世界の限界を作る事で得られる精神的状態。

きっと僕らは開発するという疾走感と
きっと僕らは縛るという安定感から

逃れる事はできないのだろう。

縛り縛られ生きるのさ。

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