「リセット」は消去の呪文にあらず
近日
友人がカナダにその生活の拠点をうつす。
昨日はそのfarewell party。
彼とはその場でほとんど話せなかった。
だけど
ひさしぶりに気のおけないメンツがそろい
はしゃいだ。
自分でもあきれるほど内容のない言葉があふれる。
楽しいひととき。
・・・
彼は昨年末に会社を辞め、充電期間にはいっていた。
次の進路が決まった、と招集がかかったとき、
「どこに勤めるのだろう」
そう思った。
だけど、彼の口からでてきたのは
「どこへ所属する」という報告ではなく
「なにをする」の報告だった。
ショックだった。
彼の進路に、ではなく、自分の思考の矮小さとちいさくまとまった
自分自身に。
どこかに所属しないと
なにもできないのか
なにもつくりだせないのか
なにも考えだせないのか
完全に思考の死角をつかれた。
その死角を襲ってくれた彼に感謝した。
・・・
彼は人生を「リセット」するといっていた。
普通、その活動の場を変えるにあたり、いままで経験し勝ち得た
ものを活用できる道を探る、それが常道といわれる。
いわゆる「キャリアアップ」ってやつだ。
それは「リセット」ではない。
「リセット」には
断絶と飛躍がある。
それには
断絶の先を想像、創造できるイマジネーションと
飛躍できる跳躍力が必要だ。
それには
いままで勝ち得た
鎧のように身に纏った小手先の経験や法則や、を
捨てて行かねばならない。
だけれど
「リセット」は単なる一括消去ではない。
デリートではないのだ。
捨て去るのが、消去が本質ではないのだ。
本当の経験とは
「リセット」という飛躍の際にも持って行くべきものでしかない。
逆にいうと
「リセット」とはその本物を際立たせるということでもある。
上ずみを掬い捨て、本物を胸に、あらたな地平へ向かう。
まさに
「RE SET」再構築なのだ。
「リセット」は消去の呪文にあらず
「リセット」は再生と前進の行進曲なのだ。
・・・
彼へのカナダへの餞別に
僕は
中谷宇吉郎の『雪』を選んだ。
中谷は雪の結晶の美しさに心奪われた人。
日本人の美意識を雪というものに投影した人だ。
彼は
雪の厳しさよりも
雪の美しさや、楽しさや、を
語るにふさわしい人だからだ。
そして、遠く離れた彼の地でも
日本を意識してもらえるように、そんな思いを『雪』に
託してみたのだ。
きっと
大変なことの方がおおいだろう。
うまくいかないこともあるだろう。
だけれど
僕はうらやましくてしょうがないのだ。
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