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2007.07.29

やさしさの賞味期限

誰もいない観客席を降り

トラックを逆に歩いてみる。

3000m障害の水壕

水もなく、緑もなく人気のないそれはさながらトマソンのよう。

近くによると、スパイクのなまなましい無数の傷跡はさながら古戦場跡。

花火大会の試し撃ちが始まる。

鳥がざわめき、木々を揺らす。

号砲ではなく、反応するのも選手ではない。

・・・

そうそう今日は花火大会で。

会場ではけたたましいほどにサザンが流れていて

その俗で安直な夏に

不覚にも切なくなる。


そうだね、僕の夏のきっと数パーセントくらいはサザンで構成されているかも
しれないもんね。

・・・

あの人はうれしそうに懐かしそうにこういった

「ディックはとってもやさしいの」

フィリップ.K.ディックをしてやさしいと評したのになにげにはじめて出会ったことに気づく。

ディックの描いた僕らの過去から見た未来が

時に熟成され
時代に濾過され
風雨にけずられ

やさしさとして降り注いだこの僥倖。

そして、ディックからやさしさを抽出したやさしさは僕にも降り注いだのだ。

・・・

きっと

ディックのやさしさの賞味期限は宇宙食のそれよりはるかに長いのだろう。

長い長い物語を紡がせるほどに深いのだろう。

遥か彼方や遠い未来を想像させるに足るほどに重いのだろう。

それに比べて

僕のやさしさは

今だ即興芝居の域を脱せずに
いつまで続くかもわからない。

今一番信頼できないやさしさは

断然自分のものだと思う。

それは皆からやさしさをもらっている証拠でもあるのだけれど。


「流れよわが涙、と警官は言った」

けれど

涙を流させるも止めるもその源をやさしさに出来たなら。

そう思い即興芝居の稽古をするのです。

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2007.07.27

それを人は野暮という。

今日は

晴れ間にじっとりとした雨が

降り

深い不快に包まれて


油蝉にまじって、夕方、ヒグラシがはやくも

鳴き

来たかどうかもわからない夏をなつかしむおかしな脅迫観念を
植え付ける。


僕は

正直に臆面もなく

欲望を吐き出す。


誰も幸せにはさせないそのしわよせはいったいだれがかぶれば
よいのか。

もしこの性癖が遺伝であるのなら

あの世にいる親爺さま

あなたはどのように


幸せになったのでしょうか

どうやって

人を幸せにしたのでしょうか。

切実に教えを乞いたいのです。



すべてに蓋をすればすむことなのでしょうか
すべてをぶちまければよいのでしょうか


蝉の抜け殻には

同じ数だけ夏を謳歌する蝉がいる。

だけれど

僕は抜け殻のなかに空虚を友に

その中に佇んでいる。。

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2007.07.24

光源

哲学
思想

それら自体を研究することに興味はない

それらは

光である

僕や
僕の属する社会や
人間や
その集団や

それらを照らす光である。
それらを測る手段である。

それらの輪郭を描き出す手法である。

僕は

その光源に興味があるのではない

そのものに興味があるから光をあてるのだ

光源の仕組みや光源の精度なんかを追求するつもりはない。

光の流儀には興味がないのだ。

哲学や思想を究めるという志なんてない。

それらの断片を盗もうと企む盗人なのだ。

盗んで光をあてるのだ

そして

絶望し

腹を抱えて笑い

一服したあとにでも

重い腰をあげ

なんとなしに進むのだ。

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2007.07.22

 きらびやかな伽藍のはずれ
 忘れられたように大樹の陰に
 ぽつりとうすぐらくその塔はある

 それには
 金銀の装飾もなく、
 悠久の調べ奏でる楽隊がいるはずもなく
 それが誇るのはぶ厚い装甲のような黒く
 ところによっては錆び朽ちはじめている
 威嚇するかの容姿のみ

 そこには
 古
 今
 東
 西
 言語、思想を問わず
 誰彼となく書き綴った言葉の束が押し込められていました

 そこには
 守衛の初老の老人が一人

 彼にとってその塔は

 冬は寒く
 夏は暑い

 なんとも息苦しい空間でしかありませんでした

 なんといってもそれは塵芥でしかない

 閂を開け、重い扉を開けるだけで

 ふるぼけているくせに、
 のたうちまわるかのように
 ひさびさの日の光に狂喜するかのように
 埃が舞い上がる

 それは眼に群がるはえのように
 入る人を襲うのでした

 彼はそこに一瞥をくれるわけでもなく
 運ばれてくる言葉をそこに投げるように
 しまいこむのみ、それが職務でした

 考えようによっては

 彼のその扱い方も、その塔と対峙する正統な方法でも
 ありました

 それは

 言葉の地層と言える代物でもありません

 そこには連続や継続はない

 それは時間の断片でしかない

 代々紡がれるストーリーもない
 成熟もない

 言えたとしたそれは時間のコラージュ。

 彼はコラージュの鑑賞方法を知っていたのかもしれません。

 ある文字とある文字
 となり合う2つの間の断絶
 偶然の邂逅

 その文字の奥には書き手が、そしてその書き手が書き残そうとした
 エピソードが、想いがそこにあり

 それを想像する
 それをいちいち読むのではなく

 それを想う、という鑑賞方法を。

 それは、文明のそれぞれの文字が読めるか
     その文字が今も流通しているのか

 それが決定的な鑑賞するツールではないのだ

 そこに
 太陽があり
 そこに
 月がある

 そこに
 花がさき、海の静寂がある

 そこに
 大切な人との再会があり
 愛しき人との別離がある

 そんな人が形成する人が感じることができる世界がある限り
 言葉の種類なんかに左右されない

 そこに書き残したいと想える事象があるだけで

 コラージュがそこに形成されるのだ



 この世から

 太陽が消え星がなくなる

 愛がなくなり

 慈しむことが意味をなさなくなる

 かもめも鷹もいっしょくたに鳥と称され

 戦場で名を馳せた祖父の勲章は言うまでもない。

 そうやって人から想いが消えていくこと

 そうやって人の心の中で絶滅の種が増え続けること

 それがこの塔の存在意義を無くしてしまう唯一根本の原因となるだろう。

 (ある言語の消失はその事例の一つにすぎない)

 きらびやかな伽藍のはずれ
 忘れられたように大樹の陰に
 ぽつりとうすぐらくその塔はある

 それには
 金銀の装飾もなく、
 悠久の調べ奏でる楽隊がいるはずもなく
 それが誇るのはぶ厚い装甲のような黒く
 ところによっては錆び朽ちはじめている
 威嚇するかの容姿のみ


 その居丈高な風格の味気ない塔に
 腰の折れた初老の老人が今日も内容もしらぬ文字の束を

 今日も運んでいる。

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2007.07.19

「アイ」がない。。

「アイ」がない。。
文字を綴る度、思いを形にする度、

喪失感は増し、

「アイ」の大切さを知る。


な〜んて、

会社のMac PowerBookのキーボードに
忙しい最中、書類をどさっと置いたとき、

ぱち〜ん!

と弾ける音と共に

「アイ」が弾けて消えたのだ。。

ってしつこいですね。

アルファベットでいうところの「I」のキーが
取れてしまったのだ。

それ以来

だましだまし使っていたのですが、このごろ
うまくなくて。。

結構文章書くと「I」って使う頻度高いんですよね。

大切さを噛みしめている次第。

アルファベット一人でもかけてもいけないのだと、
チームワークが大切だと。
one for all
all for one

ってしつこいですね。。

修理だそうかな。。

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真夜中の一気飛び。

僕は飛躍したい。

なにかを思い付く。

それはささいなことだって。

夜中に本を読んだり、考えたり。

だれだってあるでしょう?

眠気を吹き消す。時間を忘れる。



文章との出会い。
考え方との出会い。

思いもよらぬ、一気飛び。

足し算でもなく
掛け算でもない

一気飛び。

生産的とかでもなく
有為的でもなく

一気飛び。

ギアチェンジとか
早送りとかでもなく

一気飛び。

そう、一気飛び。
そう、それを一般には飛躍という。

理論は飛躍が御嫌いで。

なぜかというと

理論は足し算だから。
理論は積み上げるものだから。

理論は

棲む場所を決め、そこに家をたてるようなものだから。

飛んでしまったら、イチからだから。
最初からまたやらなきゃならないから。

世間は論理の飛躍は御嫌いだ。


人は物差をつねに携えて

なにかというとなにかを測る

それも根本には論理の蓄積がある。

測ることで、外部との関係を保つ。

測ることで外部と折り合えることができる。


そこには飛躍はない。

立ち位置が定まっていることが条件だから。

立ち位置が変わる、飛躍はない。



でも、夜中の一気飛び。

僕は好きなんだよなー

一気飛びして立ち位置が変わってはじめて

昔の自分を笑えるようになる。

「若かったなあ〜」と

そんな昔の点景を見るのも悪くない。

そんな飛躍を促す論理ってあるのだろうか?

論理の飛躍
飛躍の論理

あるんだろうか?

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2007.07.18

しばしのお別れ

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そうか

彼女は理解したのだ


それが、しばしのお別れであるということを。

そうか

彼女は認識したのだ

だから
涙は笑顔に変ったのだ。


   ・・・

なぜかもてもてである。


なぜかもてもてである。



そこでは唯一の肉体派俳優である。
代員なし。
欠員不許可のそのステージで

だからもてもてなのである。。


姪が3歳になった。

いつも遊びにいくと

最初

目も合わせない。
徹底的に距離をキープし、端からちらちらと視線を投げてくる。

気があるに違いない。

その後も

つねにロックオンは解除されることなく

距離を縮められる。

そして


チョコーーン

と唐突に膝の上にのってくるのだ。

気があるに違いない!


距離がゼロになった途端にもうベタベタである。

そして短い蜜月期間が過ぎると

彼女はボウケンジャーとして
僕はとにかく名称不明部署不明の悪役として

終わりのない舞台へとたつことになる。

あのボウケンジャーの得意技は

強烈なパンチと
するどいひっかき攻撃

おかげでまじめに生傷が絶えないのだ。。

   ・・・

そんな決闘が終わり

帰り道

いつも駅まで送ってくれる。

うまれたばかりの時は

僕をのせた列車が駅をはなれると

大粒の涙をボッロボッロッ流していたらしい。

最近では

おーい!

とうれしそうに手を振る。

おかしなもので

泣いてくれないとそれはそれで寂しい気もする。

でも、この差ってやはり成長というものなのだろうか?

彼女が変ったのだろうか?

いや

正確にいうと

関係が変ったのだ
意味が変ったのだ

そう思った。

生まれた当時

彼女はまだバイバイと言うとき

「また会える」ということを念頭においていなかったのでは
ないだろうか。

「さよなら」や「ばいばい」の重みが違ったのではないだろうか。

だから

頑にそれを拒否し涙を流しに流したのではないのだろうか。

それから

彼女はだんだんと経験したのだ。

「さよなら」は「おはようございます」に続き
「ばいばい」は「またね」と同義語であると。

僕との

バイバイも何度か交わし

それが

しばしのお別れであると

認識したのだ。

今の彼女にとって

日常は

バイバイの際の涙を笑顔に変えるほど

確かで強固な約束事なのだ。

バイバイは

断絶の呪文ではなく
再生のおまじないなのだ。

   ・・・

そして

僕がそうであったように

彼女も

いつかは再度「バイバイ」の切なさを知るときがくるのであろう。

僕は

そんな「バイバイ」を彼女に言いたくない

そう思う。

そして

そんな「バイバイ」を言いたくない関係こそ
尊いのだと。

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2007.07.15

礫(つぶて)

しかとそれを握り

憎しみの眼で

憎しみの対象に

投げつける。

力一杯悪意を込めて礫を投げつける。

差別
偏見
憎しみを込めて。

だけれど

そのしかと握られた礫は

掌で包める大きさに限定される。

その礫が放られる遠さは

僕らの腕力の範囲内だ。

そしてその影響力ではぶつけた相手の苦しむのが見えよう。

肉眼で、くっきりと手に取るように見えよう。

いやでも伝わってくるはずだ。

血を流すかもしれない
怒りに逆上し向かってくるかもしれない
痛みに崩れ落ちるかもしれない
その人を庇う誰かを見るかもしれない
悲しみにただくれるだけの姿がそこにあるかもしれない

僕は

それらどんな姿にも

ひるむだろう。

自分の悪意にのせたそれが持っていた
意外な影響力に

被害者意識が一瞬のうちに加害者に取って代わる早業に

僕はひるむだろう。


礫は放った瞬間に
文脈を持つ。

投げた方
投げられた方


加害者、被害者かもしれない
理があるかも理不尽かもしれない

ともかく文脈で繋ぐ。

それは連鎖しない
肥大拡大しない

ボタン一つで何万人をも傷つけたりはしない。
憎しみを果たすのに誰かに依頼なんてしない。

人に礫を投げるのが

どれだけ疲れることなのか

憎しみの眼差しが

どれだけ人をひるませるのか

路傍の礫とそれを握った自分の掌を

しかと眺めてそれを感じてみる。

河原でそれを投げてみる。

バカヤローと

投げてみる。

そして

礫の無くなった掌でもう一度考える。

また礫を探すのか
ほかの道を探すのか

そんな悪意のあり方で僕は生きて行こうと思うのです。

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2007.07.13

Anonymous考

Anonymous

実はいろいろこの単語には思い入れがある。

Anonymousには
匿名、作者不明等の意味がある。

さて、ここで気になるのは「名」である。

僕らの棲む社会では、人には名前がある。

ただし、これはかなり簡略化されたものだと思う。

僕らがふとすると忘れている「名」にまつわる要素として

「襲名」

「幼名」

ってのがある。

「襲名」ってのは名を継ぐという意味あいだ。
僕らの関係するところでは苗字がそれにあたるだろう。

少なくとも僕には「名」を「継いでいる」という意識は
これぽっちもなかった。

だから、その昔、母の弟さんが無くなってしまった母方に
養子にいくかい?
といわれても、「名」が変わることになんの抵抗もなかった
のだから。(その話はなくなりましたが)

そして
「幼名」ってのは文字通り幼きころの名である。
元服するまでの名である。

てえことはつまり、ある時を境に「名」を変えるってことだ。
これはなにげなくスルーしているが現代ではすごく新鮮だ。


「襲名」「幼名」をもちだしてなにがいいたいか、というと

「名」
ってのは
「継ぎ」「変える」っていうとても人間らしい意味がある
ということである。

「継ぐ」というのは人間という種を連想させる。
「変える」というのはその個人の成長を連想させる。

Anonymousで意識したのは後者「変える」という名前の特性だった。

僕はとーちゃん、かーちゃんの遺伝子を受け「継ぎ」生を受けた。
僕のとーちゃんとかーちゃんの子だっていうアイデンティティは
苗字でうけ「継いで」いる。

その一方で常に僕の中にAnonymousな部分がある。

いつ誰の影響を受けたのか、
どんな言葉で方向を転換させられたのか

わからないほどの無数の好きだった人嫌いだった人によって
僕は生成され自分を「変えて」きたのだ。

すでに作者の所在などわからない。

種としては僕のアイデンティティは絞ることができる。
ただ、個としての僕はAnonymousなのだ。
その瞬間瞬間に幼名を廃し、新たな名前を獲得しているのだ。

それら全てに名前をつけることなんてできない。
不可能だからこそ僕はAnonymousなのだと宣言するのだ。

これからも

愛すべき名前を得る様な出会いをし、
愛すべき名前を廃する様な体験をしていこうと宣言するのだ。




ただ、かわらない名前もある。

それは絵書きであり、大工であったじいちゃんにもらった名前。
その名前にはちゃんと意味があり、そこに彼のスピリットを感じる
大切なものだ。

その意味とは

己(おのれ)に克つ(かつ)

という意味である。

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2007.07.11

ジャンキーの資格

『脳内汚染からの脱出』 岡田尊司著(文春文庫)

という本を読んでいる。

なかば涙に濡れている。

その涙の震源は悔しさである。
歯がみするような悔しさである。

内容はゲームやネット依存について書かれた本だ。

例えば

過激なゲームを10分プレイするだけである脳の部位に放出される
ドーパミン量はコカインなどの薬物投与にひけをとらない。

そして過剰なドーパミンの放出は不可逆的な脳の欠落をもたらす、と。

それから、過激な映像をみたら暴力事件が増えるだの、それを止める
抑止力が損なわれるなど枚挙にいとまがない。

仮にそれらが本当だとして


悔しくないですか?

そんなものに簡単に影響されてしまう種族である

ということが悔しくないですか?

じゃあゲームをやめろ?
TVをみるな??

そんなに簡単に

僕らは自分を制御できなくなるのか

簡単すぎやしませんか。


僕らは快感を求める。

それは別に悪い事なんかじゃない。

だけれど

それが後々の不幸に繋がる

それはぼくら人間という種族が生来埋め込まれた業なのですか?

バロウズみたいにまちがって妻を射殺しないといけないのですか?
みんなでロボトミーの手術を受けなきゃならんのですか?

ゲームが悪いんじゃない
TVがこわいんじゃない

僕らにその資格がないだけなんだ

僕らにはジャンキーになる資格すら与えられてないのだ。

僕はいらだたしさとともに怖くなった。

僕は思わず好きなひとに連絡をとっていた。

資格が欲しい。

ジャンキーのための資格が。

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2007.07.10

カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。

カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。

1ヶ月前に既に (*2007年05月13日現在)


死んでいたそうだ。

カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。


彼と出会ったのはもちろんとある書店の店頭だ。


カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。

それを知ったのももちろんとある書店の店頭だ。

ネットなんかじゃなく

とある書店の

とある売り場の片隅の

とあるちいさなPOPで知ったのだ。

平積みされている著書の真ん中にたつ手書きのPOPの

ちいささと

ほかのPOPとかわらぬ佇まいが

お世辞にも墓標に捧げられた献花なんて風情でない、

シニカルなところが

いかにも、らしくて。。。


カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。

カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。

カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。



悲しむ

とか


悼む

とか


では無論なく


唐突に知ったそのニュースに少々動揺して


僕は

彼の著書とは全く関係ない文庫を

とっさにレジに持っていき

それを買った。

彼の著書には手も触れなかった。
そんな読み方は違う気がしたのか

そんなセンチではどんなシニカルも台無しだからか

ともかく


僕は

彼の著書とは全く関係ない文庫を

手に取り


彼の著書とは全く関係ない文庫を
懐に

僕は六本木の街をしばし、彷徨ったのです。


カート・ヴォネガットは死んでたそうだ。

さらばヴォネガット。


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赤よりも青や黒がお好き

昔から

赤よりも

青や黒が好きだった。

なんででしょうね。

おっと、すみません。
戦隊ものの話です。

リーダーのレッドには惹かれず、ブルーやブラックに惹かれました。

ちいさいころ昔ここの日記にも書いたことがありますが
とにかく胸に残った物語は

映画の『里見八犬伝』でした。
しかも、8人の犬士達の散っていくところにむちゃくちゃ惹かれていま
した。
殉じるところといいましょうか。

あと『必殺仕事人』シリーズで中村主水以下の仕事人が志なかばで
倒れていくところとかに惹かれていました。

北斗の拳ならレイを筆頭に南斗にひかれまくりました。
(あと、アインにも)

ブラックエンジェルズなら水鵬に。(マニアックだ。。)

ジョジョなら花京院に。


きっと

誰彼に向けた自己顕示欲よりも
誰かに向けたそれが強かったのでしょう。

「わかってほしい」という想いが細部にわたり、
「わかってほしい」と想って欲しいという歪んだ欲求をもち

殉じるという哀れな結末に惹かれていたのでしょう。

ボクは

としをとり

それがさらに歪んで巧妙になってきている自分を知っています。

そして

それによってどこにいきたいのか

わからない

なんてまわりの人のことより、自分のことを考えてしまう自分が
いることもわかっているのです。

そしてその根はひっこ抜くと自分がなくなってしまうのではないか
というほど深いのではないか

とすてて放置していることもわかっているのです。

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2007.07.07

けものみち

ローマ人が造ったヤツなんかじゃなく

次の人が通れるよう
トラフィックを気にして

造ったものなんかじゃなく

toとfromが明確になっている

そんなもんじゃなく


欲望がそのまま軌跡になってしまった

そんな跡。

歩幅は大きく
前のめりで

誰かと遭遇したらビクッと警戒感を露にする
秘密の道中。

暖かい胎内のような
甘い臭気漂う
刃のように寒い

そんな道無き道を

せめて

ほんのたまにでもよいから

せめて

私的な言葉でだけでも

突っ走りたい

そんな道を持っていたい


そんな衝動がたまに頭をもたげます。

意思伝達のツールの

いささか

錯誤が混じる使い方



人間らしい



人間なのに

けものみちを行く



とても


人間らしい。

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2007.07.05

そうか、人はそれを持たざるを得ないのだ。

まず、最近読んだ本をそのまま引用させてもらう。

プロレスについての文章だ。

 その上では茶番だ。
 でも茶番とはいえ、あの時期にアメリカ国内で、
 これほど正論をアピールしていたテレビ番組はおそらく他にない。
 俗を徹底すれば反対側に突き抜ける。
 虚実の狭間がたてまえや綺麗事を粉砕する。
 片足の障害者レスラーが悪役レスラーたちからリンチに遭い、
 団体オーナーであるマクマホン・ジュニアがリング上で
 実の娘を殴り倒し、
 女子レスラー同士のレズビアンやネクロフィリアまで登場する
 WWEは、今も徹底してアナーキーだ。

 まるでソープオペラのように低俗でアンモラルな幾つかのストーリー
 に身を委ねながら、

 レスラーたちは皆、

 プロフェッショナルであることに、

 喩えようもないほど強い矜持を持っている。

 言い換えれば、矜持を持たないことには持続できないジャンルなのだ。
 ヒールもベビーフェイスも皆、
 この薄い皮膜を必死で守り続けている。

 だからこんなに哀しい。

 記録や強さだけじゃない。

 弱さや屈折も垣間見させてくれる。

 その余韻に、僕は毎回しみじみと浸っている。

            『世界が完全に思考停止する前に』森達也著


そうか、そんなんだよ。

かつて僕は矜持って、それを持つことって

ただただ立派なことで、すごくプラスで、誇り高いものだと思っていた
のかもしれない。

でも、そうじゃない。

僕らはこんな世の中で矜持ってもんを持たざるを得ないのではない
だろうか。

なにもソープオペラほどに俗なのはリングの上だけじゃない。

それは僕らの職場も僕らの家も
それこそ真剣に人を好きになる状況だって存在するのだ。

それらは僕らがソープオペラを演じる舞台なんだ。
しかも僕らは観客もいない三文役者なんだ。

ばかばかしくってつまらない

でも僕らが演じる舞台はまさにここしかない。
僕らがなにかと戦うリングはここにしかない。

だから矜持ってもんにすがるしかないのではないか。

それってすごくもの哀しくいことなんだ。

矜持は涙ととなり合わせなんだ。
矜持は絶望との裏表なんだ。






僕はプロフェッショナルってのは

自分を知る

自分の才能の限界を
自分のおかれている立場を
自分が実現出来る限界を

知り

自分が作り上げるものの限界を
自分が作り上げるものの小ささを
自分が作り上げるものの負の要素を

認める

ってすごく哀しい道だと思っていた。

それが、この「矜持」という言葉と一致したのだ。

そして、なんでこんなことをつらつらと書いたかと言うと





ぼくは


その哀しさこそ出発点だと強く思うからなんだ。

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2007.07.04

諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる

野蛮さはすべてプリミティブだと思っていた

僕の思考に風穴をあけた

アナイス・ニンの言葉。





根本的な現実へのわれわれの嗜欲を取り戻す

ーもしそういうことが可能だとすればー

そういう力のある小説がここにある。

基調をなすものは苛烈さであって、
苛烈さは、
たしかにたっぷりとある。

しかもここには強烈な狂躁もあるし、
狂気じみた陽気さもある、
激情もあるし、
興奮もある。

ときとしては、ほとんど錯乱に類したものさえある。
金属をなめたときの後に残る
徹底的な空虚の味のごとき赤裸々な緊張をもって
極端と極端のあいだを不断にゆれ動く振幅がある。

それはオプティミズムをもペシミズムをも超えている。

作者は最後の戦慄をわれわれにあたえたのだ。
苦悩は、もはや秘密の安息をうしなったのである。

      ・・・

この野蛮な抒情(リリシズム)をもりあげているものは、
断じて誤れる原始主義(プリミティヴィズム)ではない。
それは回顧的傾向ではなくて、
未開の領域への前進的跳躍である。

      ・・・

もしこの書のうちに、生気をうしなった人々のまどろみを
醒ます震駭的な打撃力が示されているとするならば、
われわれは、
われわれみずからを祝福しようではないか。

なぜなら、われわれの世界の悲劇とは、
まさしくこの世界の惰眠を呼びさますことのできる何ものも
もはや存在しないことにあるからだ。

そこには、もはや激越な夢想がない。
精神をさわやかにするものがない。
眼ざめがない。

自意識によって生じた麻酔のなかで、
人生は、
芸術は、
われわれの手からすり抜けて、
いまや姿をかくそうとしている。
われわれは時とともに漂い虚影を相手に闘っているのである。

われわれには輸血が必要なのだ。

そして、この書でわれわれにあたえられるものこそは
血であり、
肉である。

飲み、
食い、
笑い、
欲情し、
情熱し、
好奇する、

それらは、
われわらの最高の、
もっとも陰微なる創造の根をつちかう単純な真実である。
上部構造は切りとられている。

この書がもたらすものには、
われわれの時代の不毛な土壌のなかで根が枯れうせた
うつろな枯木を吹き倒す
一陣の風だ。
この書は、その根元にまでわけ入り、その根を掘り起こし、
その下に湧き出る泉を呼びあげるのである。

アナイス・ニン「北回帰線」序文抜粋

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そう、僕らの足は2つしかないのだ。

僕らの手2つだけ

持てる武器は限られる。
持てる楽器は限られる。
握れる手は限られる。
書ける文字は限られる。

市井の詩人の手ができることは
国家の首相の手ができることのそれとは

基本、性質を異にする。

たとえ、同じ理想を持っていようと。

首相のような詩人はおらず
詩人のような首相は必要ないのだ。

さあ、僕は

首相になりたいのか
詩人でありたいのか

そう、僕らの足は2つしかないのだ。
その2つで歩める道は、その決めた道、のみなのだ。

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2007.07.03

守神のいるくらし

前に仕事でこうもりについて調べたことがある。

そこで僕は彼らが守神として大事にされていたというある一説に
出会った。

そして彼ら以外にあと2種族の守神も知る事ができた。

こうもり:かわもり(河守)
いもり :いもり(井守)
やもり :やもり(屋守)

こうもりは河を守る神様として
いもりは井戸を守る神様として
やもりは家屋を守る神様として

地域によっては崇められていたというのだ。


このことをぼーっと思い返してみると

きっとその地域は



河がきれいで
水がおいしくて
家を大切に


つまりは環境が良く、また、環境を大切にしてきたんだろうな

と想像がついた。

きっと

河の水がきれいでこうもりがエサにする小動物がたくさんいたんだろう
井戸の水が綺麗でいもりも居心地がよかったのだろう
やもりがひっそり棲めるほど家は環境と融合していたのだろう


そして、彼らがいることが、今度は逆に

河の水がきれいな
井戸の水が新鮮な
家の環境が豊かな

指標となったのではないだろうか

だから

彼らを崇め、大切にすることがそれら人間をとりまく環境を大切にする

つまりは、人間の住み心地のよい環境を維持することにつながったので
はないか

そんな想像が容易についた。

僕は今の家でいもりを見たとき
そこにいつもはない異形な生物がいることに
とまどいを覚えた

それは今思えば

彼らがいるような

動物が居心地よく生息するような

環境ではない

だから、気味が悪かったのではないだろうか。



でも、だからといって

明日から急にエコロジストになって、それだけに満身する

なんてすることはない。

改善して融合する。

そのための新たなシステムを

皆が豊かだという社会を

つくる、そんな力を得る事

それくらいしかできることはない。

それはとりもなおさず、

人が

こうもりを

いもりを

やもりを

崇めた姿勢と

なんら変わる事のない、人間古来の姿勢なのではないだろうか。。



なんか今日はナウシカみたいな文章だなあ。

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2007.07.02

足りないものは足りている。

「今一番あなたに足りない知識、情報は?」

こんな質問を街頭でしたところ

「政治、経済」と答えたひとがほとんどだった、

となにかの本で読んだ。


「芸術、文化」と答えた人は皆無だったと。

この質問は

すこし

いぢわるだ。

これはぱっと問うて、ぱっと答える種の質問ではないからだ。







ほんとうに


足りないもの


それがぱっと言えるはずがないではないか。

ぱっと足りないと、認識できるということは
すでに身近にあり
すでに持っているものばかりだ。

「もっと」欲しい。
すでに足りているものである場合のほうが多いのではないか。

本当に足りないものは
本当に認識していない
その過不足に当の本人は気付いていないもののはずだ。

自分になにが足りないか

それはとても広い視野で色んな角度階層手法で世の中をみれないと
判断さえつかないはずだ。

そして、今の自分の現状を主観客観でじっくり検分できなくては語れない
ほどレベルの高い問答だ。


さて

最初の問いの答えで多かった「政治、経済」そこからわかることは

僕らの社会がそれらに偏重しているということだ。

それらのウェイトが高いということだ。

そういえば

僕が就職活動をしていた頃

「文学部」というのはハンディでしかなかった。

みなこぞって「政治、経済」を学び世の処世術を獲得しようとやっき
だった。
(僕は経済学部だったが授業にはほとんど出ず、出たとしても授業の
前に生協によっては本を買い授業中に読みふけっていた)

そう、それがメインストリームとなり社会を作る。
右を向いても左を向いても同じような会話が繰り返される。

僕は昔からその社会にどっぷり浸かれない性質を持っている。

だからこんなひねくれたことを言うのかもしれない。


だけど

僕は足りているものを足りないとしか思えないよりも

ずっと

足りないものを探す道なき道を進んでいきたいのだ。

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