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2007.08.30

親父

そろそろ


あと数日で今年も親父の命日で。


生前はこんなこと思いもしなかった。


まさかあんたが死んだあとに



信号を待っているときに
仕事でピンチなときに
真実が一つわかったときに
だれかの真心にふれたときに
星がきれいな夜に
悩みたちどまる度に

そして毎年このころになると

あんたを思い浮かべるなんて


誰かを裏切ったあとに
誰かを愛したあとに
誰かを傷つけたあとに
誰かを求めたときに
誰かを。。


あんたに叱責されることを思い浮かべるなんて



あんたは最後


新聞も重いとうめくほどにやせ細り

そのくせ

最後の晩餐にはキャビア!と。。


まだ、元気があるころは
見舞いが恥ずかしく

あんたに「具合は大丈夫?_」と気をつかうのが
恥ずかしく。。



あの日は暑かったなあ

でも

あんたがいなくなった後は




音が消えた。



僕は今でもできそこない。
それも磨きがかかってきている気がする。


それもこれも


僕は血のせいだと思っている。


しょうがないでしょ、あんたの子だ。



あんたに




読ませたい本が



沢山あるんだよ。

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2007.08.29

余韻

暑い暑いと呪文を投げつつも

ようやく

「夏の終わり」

なんて台詞を聞くようになってきました。

この時期いつも漠然と思っている事がありました。

「夏の終わり」

とはよくいうけれど

「秋の始まり」

とはあまりいわないなあ、と。

 ・・・

生を重ねてゆくにつれ、
その良さに味わいを見いだすものがいくつかあります。

そのなかの僕の好きなものの一つに
(好きな日本語の一つでもある)

「余韻」があります。

誰かとシェアするものでもなく
エピローグとしてかたるほどでもない

何かの終わり

それがいい結果であろうとそうでなかろうと

当事者である本人でしか味わえない後味
当事者だったその時の自分から離れ、
その何かをスクリーンで観ている観客のような立ち位置で

味わう

極めて個人的な営み。

なにかの終わりを前提とした

断絶、絶縁があまりにも悲しすぎるから

人が描くグラデーション。

消えるために用意された最後の調べ。

それに似合うのは大粒な涙なんかではなく

哀しさ溢れる顔から咲いた泣きそうな哀しくやさしい、静かな笑顔。


 ・・・

「夏の終わり」


ああ

そうか

そこにあるのは「余韻」なんだね。

ああ

そうだ

その音色を味わい愛でているのだね。



 ・・・

今日も大阪で熱い戦いが繰りひろげられています。

On Your Mark(位置について)

という呪文は選手だけではなく、僕ら聴衆にも効き目はばつぐん。

いかに速く、いかに遠く、いかに高く

を競い、技を競っている。


競技を終えたアスリートの皆様

表彰台に上れる権利をもらえる人は各種目3人だけです。

でも、「余韻」にそんなものいりません、誰の許可もいらない。

「夏の終わり」がそれを用意してくれています。

観客なんていなくなった

熱も灯りも消えたグラウンドで

あなただけの豊かな音色を味わって下さい。

まだまだ大阪は熱い。

だけど、破れた選手たち、勝ち誇る選手たちの余韻が
僕には聴こえてくる気がするのです。

夏は暑い

夏はもう終わろうとしている。

そのかすかな切ない響きは

思い出へと昇華しようとしている。

夏はもう終わろうとしている。



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2007.08.28

だから僕らはまたおみくじを引く。

進化とか進歩とか

いつも僕らについてまわる理想の頂き。

その度に僕はある漫画を思い出す。

人間の能力をより高みへと昇らせる為に
(理由は多々あるが)生み出された、
炭素生命体と珪素生命体のハイブリッド生命体を巡る
少年達と闇組織との闘いの物語。

その生命体はそれぞれに意志を持ち、最後、クライマックス。
圧倒的な組織の力に主人公が屈する。

そこで組織のリーダーがその生命体に語りかける。

「一緒に進化の扉を開けようではないか!」

それまで口を閉ざしていた生命体はこう答える。

「進化なぞいらぬ。そんなもの望んでおらん。」

と。

そうか

そんなものが欲しいのは人間だけなのかもしれない、

そう強く思った。

進化とは同じ種の他の個体から逸脱する自己矛盾でもある。

それは矮小な個体の欲望からなるものではない。


唐突になぜ、こんな話を?

ふと

部屋を片付けていて

おみくじをみつけたからです。

おみくじって

人の望みとか欲とか願いをわずか十数項目で網羅している
昔からの系譜であると

感心したからなのです。

みんなが願っていることなんて十数項目で足り、それは昔から
ほとんど変っていない。

そんな人間という種の普遍性に触れたからです。

世界は日々進む
進化の欲望は根強い

だけれど

僕らはまたおみくじを引くのだろう。

そう思うと

なんだか今の世も捨てたものでもないと

なぜだか安心したからなのです。


それに加え人間の叡智は

フォーチュンクッキーのネタを考えられる些細な想像力
なんかで十分なんじゃないか

そう思います。

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2007.08.23

世界の前に立つ私と言う限られた存在

「世界をかえることはできますか?」

ふとつけていたTVからこんな言葉が流れてきました。

『わたしたちの教科書』というドラマのメインキーワードのようです。

いじめられている生徒が先生に挑むように問いかける。
「世界はかえられるの?」と。

彼女は世界の色々な悲惨な光景を語りこう問いかける。

戦争
環境汚染
虐殺

等等。。。


さあ、どうなんでしょう、と考える。




あれ、「世界」の定義ってなんでしょう?

と、とまってしまいました。

あったことのない人たちの生活
いったことのない人たちが築いた文化

そんなものもひっくるめて

「世界」というのでしょうか?

えらい肥大化してる
えらい膨張している

私という個人。
人間の個体。

それは有史以来ほとんど変っていない。

なのに

この「世界」のふくらみ加減といったら!

中学生があたかも自分ごとのように
メディアにのった悲惨な光景を

語り、談ずる。

かりにそんなものまで

「世界」というのであれば

きちんと

”わたしの世界”と自分とリンクさせて考え語れなくては
うさんくさくはないか?

”わたしたちの世界”として、そのわたしたちを明確に語る
ことができなくてはおかしくはないか?
その世界の構成要員はだれなのか?認識できていなければ
おかしくはないか?

きっと

大人になるとは

その世界がひろがっていくことではないだろうか。
”わたしの世界”が大きくなっていくことではなだろうか。

きっと

えらくなるとは

その世界がひろがっていくことではないだろうか。
”わたしたちの世界”が大きくなっていくことではなだろうか。
”わたしたち”の数が増えていくということではないだろうか。



きっと

それを認識できないと



世界をかえることはできない。

なぜかって?

きっとほんとうに心底から

世界をかえたい、と人生を懸けてまで思えることは


きっとないのだろうから。

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2007.08.22

笑いし為にここに集いし。

昨日

とあるつてで

東京ミッドタウンにてイッセー尾形さんの一人芝居をみにゆく。

はじめ

「ふ〜ん、こんなもんな」なんて思ってみていたものの

気づくと

彼の一挙一動に笑いがもれる。

表情の変化ににやけてしまう。

う〜ん、レベルが高い。

楽しいひととき。

・・・

御芝居や、映画など

娯楽を娯楽として楽しめる観客としての一番良い状態って

「それに飢えすぎていない」というのがポイントだと思う。

過剰に名作だから涙を用意して臨んだり
お笑いだから観る側が笑いを用意してたり

涙に飢えすぎていない
笑いに飢えすぎていない

というような受け身なんだけど、ニュートラルな状態がよろしかろうと。

「イッセー尾形の一人芝居」

これに臨む場合、いやでも笑いを意識してしまう。
いやでも笑う事を強いられる。

だから、僕は一番はじめ、逆にもっのすごく構えていた。

その場に流され、笑いを用意してきた人の笑いにつられずになんて。
(なにしてんだろ。。嫌なやつだ。。)

笑うという強迫観念から逃れたいと。

それを

イッセー尾形は

そんな人もいるに違いないと

知っているかのように

徐々に距離を詰めてくる。

敢えて意識せず、

いつもやってることをやってるだけ、なんて風情の職人的な所作を

淡々と。

一度強迫観念を越えた笑いを捧げてしまったら、そこには距離はなく
舞台と客席は一体となる。

そうやって取り込む術を知っているかのような、そんな芝居を

僕はレベルが高いと思った。

そこは

作りあげたネタの単なる発表会なんかではなかった。

「笑い」について

「笑う為にそこに集う」ことがなんなのか

まで考えた演目のような、そんな充足感を僕は感じた。

豊かな笑い。

いいじゃない、たまには。

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2007.08.21

親父の本棚、120日、ホイットマンとキリスト教。

盆休みに実家に帰る。

ひとしきり話しをしたあとに

仏間の親父の本棚に。

「ちょっと物色させてもらうわ」と母親に了解を取る。

見過ごしていた古ぼけた詩集を見つける。

『ホイットマン詩集』
『ヴェルレーヌ詩集』

ぱらぱらとめくって、最後の見返しの部分に

1970年 9月17日 ○○さんより

ん?

親父から母親へ、だな、母親の誕生日だし。。。

ん?

誕生日プレゼントに詩集?!

早速母親を尋問だ!

すると、全くもって鈍いリアクション。

「ん〜 全く覚えてないわ。。」
「開いた事もない、存在も知らない」

そんなわけないでしょ?
思い出して、思い出して。

「ああ、確かにもらった!もらった喫茶店も覚えてる!」

場所より本を覚えててあげなさい。

「そのころは同僚だったオスギとピーコと飲み歩いてた時期だから
 詩集なんて読まないわ〜(実話)」

「あの人と本の話をした記憶すらないよ」

ん〜、それがこの夫婦のバランスだったんだろうなと妙に合点。


にしても、詩集か。。
その血はなんとなしに僕にも流れている気がする。。。。


「にしても、詩集か、暗いなあ、ちょっと」

と母親に。

「それがどうして、あの人根は明るいのよ」
「根底はケサラセラ〜よ」

「ああ、その明るさとこの暗さは同居可能なんだよね」
ん〜、やはり自分に近い気がする。。

「やっぱり、僕にはあの人の血が流れてるって実感するね。
にしても、こんな性質なのによく会社勤めを全うできたもんだねえ。」

「ただ、あの人まがりなりにも洗礼受けてるじゃない?
それに家庭の事情もあって苦労した人だから、自分の欲とか意志以外の
ものを信条するように教育されていたからね。(実話)」

「その反動もあって、子どもには型にはまった教育はしない、と決めた
そうよ。」


ふーむ、それで出来上がったのがわたくしなのですねえ。

ありがたいことに欲に流されっぱなしですよ〜

などとやりつつ、さらに物色。

今回の釣果は。。

『ホイットマン詩集』
『ヴェルレーヌ詩集』

そして

『ソドム120日』マルキ・ド・サド著

って、実家から持ってくる本じゃないよっ!!

頽廃し切った貴族が人里離れた城で120日にわたって奇行、乱交、虐殺を
行うって内容だよ?

我が家はこんなところでエッジが効き過ぎ。。

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2007.08.15

度量衡

10年間の僕の持つ度量衡のシステムは

今のそれと大分異なる。


人との距離を測り

愛の重さを

裏切りの大きさを

誰かの寂しさの深さと傷の深さを

夢の大きさを

心の広さを


なんだかんだで測ってきた。

足りない時はあらたに取り寄せ、比較検討することであらたな物差しを作る。

やってきた。

それは外部との接触があれば自ずと磨かれる、そんなものだ。

ただ、昔も今もあまり発達していないといえる部分がある。
せっかく測ってもそれを台無しにするやつだ。


僕の心は精度をあげた度量衡を使った測量士にたまに噛み付く

「そうだけど、でも。。」

せっかく測ったその答えの精度は高い。



でも


たしかに立派なことだけど、でも。。
それは正しいだろうけど、でも。。
有意義だろうけど、でも。。
悪い事だろうけど、でも。。


でも

の後のものは

きっと自分の判断なんておよばない大きなことなのだろう

だから

魅惑的で

だから

危険でもある。

だから

精度の高い度量衡システムにもかかわらず

僕は日々難渋している。

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2007.08.14

凄腕スナイパーの季節

青い
青い

大空を鳥が味わうように

旋回を繰り返し

遠くへ

遠くへ

なにかに遮られるのではなく
肉眼では捕らえられなくなるほど

彼らは小さくなり
消えてゆく

空の広大さを

奥行きで感じる

いつしか自分にとって空が奥行きをなくしていたことを感じる。


おおっと

自然を見て、すぐまた自分の身を振り返る

悪い癖です。

ふと目を落とすと

クモの巣に大きな黒揚羽がからまれ、かすかに蠢く。

さらに

地面に目をやると

ひからびたミミズが蟻達にせっせと運ばれている。

そんな

身近な自然を感じるのは

突き刺すような太陽と
むせるようなまとわりつく熱気

逃げ場のないガス室のなかにもかかわらず
どこにいても確実に僕を射抜く凄腕のスナイパーに狙われている

そんな状況下。

どっちかでいいじゃん!と苦情もいうもかき消す蝉の大合唱。

暑い暑い暑い!

自然を味わっていたことを忘れさせる呪文

暑い暑い暑いっ!!!

その呪文を発現させたのは

足に停まっていた5匹の蚊。

彼らが僕に毒を盛ったから。

もう限界だ。

もーうだめだ。

ビールとクーラーがまってるさ。

その前に

もう一度

凄腕スナイパーに身をさらけだし、挑発して帰ろう。


不思議に毎年、この凄腕スナイパーに狙われると

ポール・オースターの『ムーン・パレス』を無性に読みたくなる。

そして

そいつに撃たれると治療には

ビールという魔法の飲み物が必要になる。

エフィングに会いにページをめくろう。
ユタの砂漠を旅しよう。
セントラルパークでフォッグにあおう。

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2007.08.08

自然な死角

誕生日に数少ないお祝いの中でわざわざ頂いた言葉

的確にぼくを表現して頂いているのでもったいないので

勝手に転用。

誕生日おめでとう。
あなたのような人は会いたくても他にいないでしょう。
明るく暗く健全に病んでて
インテリで馬鹿、
ナイーブでがさつでそつなく失礼、
オープンで閉鎖的で
冷たく優しい。
真面目にいい加減で、
いろんなことを流しつつも立ち止まってしまう
自虐的なナルシスト。
バランスがいいんだか悪いんだか、私にはわかりません。
が、相反する要素をいくつも内包する自分
の価値を、いつまでも大切にしてください。
理想を求めつつ理不尽な状況にも飄々と、弱くて強くい
て下さいね。

ううむ。

うまいことをいう。

この中で、
自分で意識しているのは
自分が嫌いだと認識しているところ、
自分がへこんだときに感じる性質だったりする。

だけれど

自分が意識すらしてなく、それを相手に振る舞っている処世を
僕が知らず知らず身に付けていた事に気づかされて

はっとした。
自分が追求したりしない、自然な振る舞い。
それは僕自身まったく認識していない自然な死角だったのだ。

そして、また、

こんな極端なところを認識してくれているということは

それらを受け入れ認めてくれている、そんな器量があるということだと

つくづく

感謝をしたのです。

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2007.08.05

書き写す。

こうやって文章を綴る。

現実を切り取り
思いを掬いあげ

それらを写し取る。

時に正確に模写し
時にその思考を発端に思うままに描き上げる。

その量が増え始めると






落ち着かない







現実より思いより

写し取ったものが濃くなる

写し取ったところで

進んでしまう現実は進んでしまうし
手にしたい未来は以前遠く

写している最中も

こうやって、空蝉は確実に流れ、また明日がくる。

それらを削り

それらを写すというアンバランス、不安定。

それは鉛筆を削りなにかを書く
そんなイメージが近い。

確実に減っていく鉛筆の芯。

不確実に蛇行しながら紙面に表される思いたち。

だけれど

一度も削られた事すらない鉛筆より
短くなれど、まだ書く気満々のエッジの効いたやつのほうが小気味よいではないか。


・・・

どらえもん

の道具のひとつに「かげ人間切り取りバサミ」というのがある。

"人間の影をはさみで切り取り、切り取られた影は活動を開始する。
30分の間、影は素直に命令を聞いてくれる。
この間影は声を出すことはできない。
しかし切り取ってから30分たつとずるがしこくなり、
自分が影であることが嫌になり、影が本人と入れ替わろうとする。

30分後には影は自分の意思で勝手に動き回り始め、口をきくようになる。
やがてひとりでに、真っ黒な影の姿は人間に近づき、
逆に影の主である人間のほうが色が黒くなり、
2時間ほどで両者が完全に入れ替わってしまう。"

書き写す行為をする度に

この道具が頭をよぎっていた。

それは影を切り取る行為に似たイメージがあった。

切り取ったものも
自分自身も

同じものであるはずなのに

逆像と正像
陰と陽

切り取られた瞬間にそれは別の2つになる。

その後は別々の時空を生きる。


そしてこうも思った。

それを、切り取る行為を生業にしている人

それは狂気をはらむに違いないと。

そうでしょ

耳をちぎる画家がいるように

そうでしょ

これまで天に届くほどに星の数ほどに切り取った影にとってかわられた表現者
はいるでしょ。

切実に

この世を
この自分を

思うが故に。

切り取られて

自由を得たその影は

虎視眈々と本体を乗っ取るチャンスを窺っている。

彼らに

僕はどう写っているのであろうか。


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2007.08.02

みなそれを前提としている。

雨上がり

雨で化粧をした全てが

太陽というライトアップにさらされ

むせるようなハイコントラストをみせる。

生い茂る緑は深々と
咲き誇る黄色は太陽に呼応し
いつもより流れの速い水はその乱反射とスピードで光という多重奏を奏でる。

そんな五感で感じるオーケストラを前に

ふと気づく。

それら全てに意味がある。
そう語ると恣意的というならば
それら全てにメッセージが込められている。

そしてさらに言うなれば、
そのメッセージを受け取る誰かがいるということが前提になっている。

日の光を浴び

草木があおあおと茂る。

日の光の作用で緑になる。

黄色でもなく青でもなく緑になる。

そこには誰かのチョイスがあるはずだ。
緑色にした意味があるはずだ。
伝えたいメッセージがあるはずだ。

そして、緑色はそのものの所在となるかもしれない。
その色を目当てに捕食する輩もいるかもしれない。

それは食物連鎖の仕組み作りとでも言えるのではないか。
緑というメッセージには
「どうぞ食べて下さい」というメッセージでさえ含まれているのではないか。
それにだって、誰か食べる生き物を前提にしていることにはならないか。

光の3原色 
R
G
B
すべて合わさると白になるこの仕組みも、そんな壮大な仕組みの一部なのでは
ないか。

それは

太陽光を

想定に入れているから太陽系よりもっと規模の大きい誰かの仕業なのか
それとも
地球をとりまく環境をすべて洗い出し作り出した地球の主の仕業なのか

などと

雨上がりに考えてしまうのです。

偶然にしては、誰もがそれぞれを前提に

色を誇り
容姿を競い
香りをふりまく

全てが全ての存在を前提にしているという完成度の高さにうなってしまうのです。

そして

連鎖とはなにもピラミッドではない

頂点が偉いわけでも強いわけでもないのだと感じるのです。

みながいる

それが前提なだけなのですから。

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