みなそれを前提としている。
雨上がり
雨で化粧をした全てが
太陽というライトアップにさらされ
むせるようなハイコントラストをみせる。
生い茂る緑は深々と
咲き誇る黄色は太陽に呼応し
いつもより流れの速い水はその乱反射とスピードで光という多重奏を奏でる。
そんな五感で感じるオーケストラを前に
ふと気づく。
それら全てに意味がある。
そう語ると恣意的というならば
それら全てにメッセージが込められている。
そしてさらに言うなれば、
そのメッセージを受け取る誰かがいるということが前提になっている。
日の光を浴び
草木があおあおと茂る。
日の光の作用で緑になる。
黄色でもなく青でもなく緑になる。
そこには誰かのチョイスがあるはずだ。
緑色にした意味があるはずだ。
伝えたいメッセージがあるはずだ。
そして、緑色はそのものの所在となるかもしれない。
その色を目当てに捕食する輩もいるかもしれない。
それは食物連鎖の仕組み作りとでも言えるのではないか。
緑というメッセージには
「どうぞ食べて下さい」というメッセージでさえ含まれているのではないか。
それにだって、誰か食べる生き物を前提にしていることにはならないか。
光の3原色
R
G
B
すべて合わさると白になるこの仕組みも、そんな壮大な仕組みの一部なのでは
ないか。
それは
太陽光を
想定に入れているから太陽系よりもっと規模の大きい誰かの仕業なのか
それとも
地球をとりまく環境をすべて洗い出し作り出した地球の主の仕業なのか
などと
雨上がりに考えてしまうのです。
偶然にしては、誰もがそれぞれを前提に
色を誇り
容姿を競い
香りをふりまく
全てが全ての存在を前提にしているという完成度の高さにうなってしまうのです。
そして
連鎖とはなにもピラミッドではない
頂点が偉いわけでも強いわけでもないのだと感じるのです。
みながいる
それが前提なだけなのですから。
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