世界の前に立つ私と言う限られた存在
「世界をかえることはできますか?」
ふとつけていたTVからこんな言葉が流れてきました。
『わたしたちの教科書』というドラマのメインキーワードのようです。
いじめられている生徒が先生に挑むように問いかける。
「世界はかえられるの?」と。
彼女は世界の色々な悲惨な光景を語りこう問いかける。
戦争
環境汚染
虐殺
等等。。。
さあ、どうなんでしょう、と考える。
と
あれ、「世界」の定義ってなんでしょう?
と、とまってしまいました。
あったことのない人たちの生活
いったことのない人たちが築いた文化
そんなものもひっくるめて
「世界」というのでしょうか?
えらい肥大化してる
えらい膨張している
私という個人。
人間の個体。
それは有史以来ほとんど変っていない。
なのに
この「世界」のふくらみ加減といったら!
中学生があたかも自分ごとのように
メディアにのった悲惨な光景を
語り、談ずる。
かりにそんなものまで
「世界」というのであれば
きちんと
”わたしの世界”と自分とリンクさせて考え語れなくては
うさんくさくはないか?
”わたしたちの世界”として、そのわたしたちを明確に語る
ことができなくてはおかしくはないか?
その世界の構成要員はだれなのか?認識できていなければ
おかしくはないか?
きっと
大人になるとは
その世界がひろがっていくことではないだろうか。
”わたしの世界”が大きくなっていくことではなだろうか。
きっと
えらくなるとは
その世界がひろがっていくことではないだろうか。
”わたしたちの世界”が大きくなっていくことではなだろうか。
”わたしたち”の数が増えていくということではないだろうか。
きっと
それを認識できないと
世界をかえることはできない。
なぜかって?
きっとほんとうに心底から
世界をかえたい、と人生を懸けてまで思えることは
きっとないのだろうから。
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