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2007.09.28

biotope


月が綺麗な   その夜に   僕は宇宙に属している と実感する。

雲が雄大な   その昼下がり 僕は地球に属している と実感する。

麗しいことばに 出会った時  僕は日本に属している と実感する。



あなたの笑顔に つられて笑ってしまった時 僕は 僕に属していると実感する。



目には目を

歯には歯を

笑顔には笑顔を

手には手を



なぜ月が綺麗だと感じるのだろう

なぜ手は手を握りやすいのだろう

実感の集合

それを人生とよべるように。。

そのなかで佇むのが自分であると実感できるように。。

 


雲を見ると急に天は開け人生が3Dにみえてくる

ありふれた道

ありふれた街

も、立体感をもつようになる。





好きなことば

麗しきことば


いつも、ふと頭に心に現れては消えてゆく



「舞踏」



しなやかに「舞い」
雄々しく大地を「踏み」鳴らす

大地をベースに人が華麗に人工の美を見せつける
己のが美を、各部位各所作を優雅に

己のが激情を、母なる大地に打ち鳴らす

荒々しさと優雅な様が
垂直の力強い動きと水平の線で描けるような優美さが


人間のありかたがそこにこめられたような。

相反する、異性間の差ほどの違いのある2つの動作の親和性。

異性を掛け合わせるところにあるもの、それを艶と呼ぶのだろうと

ふと想像したあの時僕の頭にあったことば


そんな色々な実感が
そんな色々な生態系を孕み

僕を形成し、僕をとりまく。



あなたの笑顔が僕向けに作られているのか
はたまた僕のつられ笑顔があなた向けに作られているのか

敗北は明白ながら

おっと、この笑顔は誰向けに。






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2007.09.19

終点へ

僕はよく

ただひたすらに電車にゆられ

終点まで。

本をよむわけでもなく
人間を観察するわけでもなく
道中を楽しむわけでもなく

塾をさぼり

がたごとと。

そう

車両が揺れる音
連結部がきしむ音
停車する音
人が降りる、のる音
発車する音

それが世界の全て。

段々に人が減り
終点近くなるとほんとうにまばら。

終点につくと、とりあえず降りる。

なんでだろう

どの線にのっても

なんでだろう

終点って、どこもかしこも寂しいの。

停車する音さえもなんだか寂しくて。

そして、不思議に、それは他人事。

僕自身は寂しくなんかなく、かといって

決して開放感は感じてなかった。

そして、なおかつ

また折り返し同じ電車にのる。

なんでだろう

どの線にのっても

なんでだろう

都心に戻り、車内に人が増えているのに

なんでだろう

終点の駅の寂しさをひきずったまま

僕は

なにごともなかったように家に帰っていた。

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2007.09.15

そんな無理矢理発する白黒に

これまで生きてきて

一番頻繁に使っているコミュニケーションツール。

年をとり

その度に使い方がうまくなってしかるべきだ。
使いこなせて当然だ。

だけれど、

いつだって肝心な時にそれは役に立たない。

そのツールとは

口である
言葉である

音節をくぎり、意味をもたせ、声となし

想いを紡ぐ。

その瞬間、それを、言葉を、選べる、その選択肢は1つだけ
口という器官が1つしかないから。。

それに対し

この胸に去来する想いは果たして何種類あるというのか
意味をもたせた言葉でいうなら、それは数知れず。。

それは年をとるにつれ、複雑に、曖昧に、色々な事や人が絡まりあい。。

その反比例は著しい。。

そんな色々な複雑を

いびつに強引にカットする。
それを瞬時に行い、

口からでるそれは、でたらめじゃあないのだろうか。

大事な事ごとを切り捨て、ありもしないものを着色し

とんだ厚化粧。

「話してくれないとなにを考えているかわからない」

そう詰め寄られても

頭の中では色んな意味が錯綜し
心の中では詰め寄る相手の心情と自分の心情が火花を散らす。
心情を汲み、発する際には全部こぼれてしまっている
そんなみじめな自分の姿。。
こぼれたミルクはもとにはもどらないのにさ。

「結局そういうことでしょ?」

そうやって乱暴に鉈で姿を削った真実という彫刻に

いったいなんの意味があるというの?

「そうだよ」
「ちがうんだ」
「すきだよ」
「きらいだよ」
「あいつが正しい」
「こいつが間違ってる」

そんな無理矢理発する白黒に

耐えられなくなって

僕はあなたを突き飛ばし
僕はあなたをぎゅっと抱きしめる。

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2007.09.11

やりくちはたった一つ。

あの時

僕を救ってくれたのは

バグダッド・カフェのジャスミンの巨躯だった。

あの時

僕を救ってくれたのは

ガタカのユージーンの孤独な天才の車椅子姿だった。

あの時

僕を救ってくれたのは

コインロッカー・ベイビーズのキクとハシのさやわかな暴力だった。

あの時

僕を救ってくれたのは

花京院典明の孤高な友情だったし

はじめの一歩のデンプシーロールだった。

どうやって僕を救ってくれたのか

感動?興奮?悲しみ?共感?せつなさ?

いやいや

みんなやり方は共通していた。
僕の救い方は皆同じだった。

やりくちはたった一つ。


KILL TIME


僕の空虚をとにかく埋めるというやりくちだった。

喪失感は時間という奥行きを持ち、それは、ためしに石を落としても
一向に底に跳ね返る音も聞こえないほどに深く感じられた。

たった百分や二百分のビデオテープや
たった数百ページの紙の束は

僕の心に入り込むと、えらいスピードで膨張してくれた。

そして

僕の心は

心温まるドラマだろうが
悪趣味な暴力だろうが
せつない悲劇だろうが
たんなる喜劇だろうが
さわやかなスポコンだろうが

皆一様にどん欲に吸収した。
まるで食欲があるかのようにどん欲に。

生きるためなのか
死ぬためなのか

生を長らえるためなのか
死に一歩でも近づくためなのか

ともかく、埋め尽くすために

僕は物語を摂取し続けた。

だから、実はあらすじなんかを語るのはそれほど得意ではないのだ。
僕の心はそれをあらすじや原型のないほどに消化してしまうのだから。

だから、僕は文字の力をかりてそれらを記すのです。

せめてものなぐさみに。

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2007.09.07

結晶機械

夜の駒沢公園。

僕は独り寂しく走る。

使い古した僕のいつものリズムとフォームで。

寂しく走る。

悲しさや
くやしさや
憤りや

それらを頭から引き離すように

僕は走るペースをあげる。

全身にスピードをあげる指令を送る。

身体の各部位が酸素の奪い合いをはじめる。
おのずと脳への酸素の供給量が下がる。

脳の活動が停滞する。

すると、満たされない想いから一時的に解放されると期待して。

僕はさらにスピードをあげる。

でもそれは

悲しさや
くやしさや
憤りや

それらすべての純度を上げる結果といつもなる。

そう

死ぬ直前の走馬灯がその情報量の多さ故に色を捨てモノクロになる

なんてのと同じ。

いらない情報を切り詰めていくと

純度の高い悲しみが脳の中で形成される。
純度の高いくやしさだって作り上げられる。

いくら脳から酸素を奪っても

心は律儀に与えられた心象を表現し続ける。

ぐるぐると駒沢公園を疾走し、疲れ切った僕の身体は

悲しみやくやしさの結晶を獲得する。

そんな負荷から解放された身体と、結晶を排出したあとの心が出会うと

そこには大抵空がある。

空をみる余裕

空を観てしまう悲しさ

があるところには必ずそこには空がある。

そんな時、地面ではなくて空をみる、そんな仕草がロマンチストみたいで
気持ち悪いな、と苦虫をつぶし

それが合図で家路につく。

その日作った結晶は放り投げてしまおう。

それこそ星になってしまうほど遠くへ。

帰り道

なんの合図もなく立ち止まる。

ふと

後ろを振り向く。

誰もいない一本道。

誰もいない。

僕は

悲しみが追いかけてくるような気がして足早に逃げるようにして

走り去るのだ。

空も見ずに。

走り去るのだ。

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2007.09.01

東京体育館/唯一のスパイク/ノモンハン/井戸 記憶の断片

四谷駅から千駄ヶ谷駅までの総武線。

目指すは駅前の東京体育館の200mトラック。

団体もきていない朝一番。

いつもの貸し切りのロッカールーム。

なにかをたしかめるようなウォーミングアップ。

昇り切っていない太陽とアイコンタクト。

やりますか、とひとりごち。

生涯唯一の相棒のスパイクを纏う。

呼吸がきしむ。

顔がきしむ。

腕が、足が、身体がきしむ。

焦燥感と、あとは速くなるだけという身勝手な楽観と。

疾走している時のスパイクとの一体感。

インターバルの時のスパイクとのちぐはぐと。

水を飲みに行く際のコンクリートに鳴るスパイクのピンたち。

水をほおばり、不規則に叩き付けられる水のリズム。

ストップウォッチを押したらそれが確実に時を記憶する確実性よりも
ともかく、ゴールまで走り切る所作の必然がいまでは不思議で。

きしみから解放された身体のけだるさと正午過ぎのけだるさのマッチング。

汗まみれのTシャツと。

それを入れるBEAMSのショッピングバッグ。

駅前のモスでたのむチリドッグ。

ねじまき鳥クロニクル。

ノモンハン。

井戸のエピソード。

特に実りのない充実感。

いや、充足感。

その時、時は太陽と月と地球の有様でしかなく。

その時、今考えると不思議なほどに時は自分の人生とはリンクしていなかった。

速くなるために走っているのに未来に関する全てが希薄で。

外苑前まで歩き、リブロで本を物色する習慣。

一番人生でコーラがおいしかった頃。

走った距離と積まれてゆく本だけが僕の実在を証明するアリバイで。

それだけが僕のアウトプットとインプットだった。

誰に向けたものでもなく。

強く願うわけでもなく。

それが全てだった。

それはそこにみたされており。

そして、それしかなかった。

そして、そこにしかなかった。

今、ぼくのまわりにはそれはない。



ないからきっとこんなふうに愛でる事ができるのだ。


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