結晶機械
夜の駒沢公園。
僕は独り寂しく走る。
使い古した僕のいつものリズムとフォームで。
寂しく走る。
悲しさや
くやしさや
憤りや
それらを頭から引き離すように
僕は走るペースをあげる。
全身にスピードをあげる指令を送る。
身体の各部位が酸素の奪い合いをはじめる。
おのずと脳への酸素の供給量が下がる。
脳の活動が停滞する。
すると、満たされない想いから一時的に解放されると期待して。
僕はさらにスピードをあげる。
でもそれは
悲しさや
くやしさや
憤りや
それらすべての純度を上げる結果といつもなる。
そう
死ぬ直前の走馬灯がその情報量の多さ故に色を捨てモノクロになる
なんてのと同じ。
いらない情報を切り詰めていくと
純度の高い悲しみが脳の中で形成される。
純度の高いくやしさだって作り上げられる。
いくら脳から酸素を奪っても
心は律儀に与えられた心象を表現し続ける。
ぐるぐると駒沢公園を疾走し、疲れ切った僕の身体は
悲しみやくやしさの結晶を獲得する。
そんな負荷から解放された身体と、結晶を排出したあとの心が出会うと
そこには大抵空がある。
空をみる余裕
と
空を観てしまう悲しさ
があるところには必ずそこには空がある。
そんな時、地面ではなくて空をみる、そんな仕草がロマンチストみたいで
気持ち悪いな、と苦虫をつぶし
それが合図で家路につく。
その日作った結晶は放り投げてしまおう。
それこそ星になってしまうほど遠くへ。
帰り道
なんの合図もなく立ち止まる。
ふと
後ろを振り向く。
誰もいない一本道。
誰もいない。
僕は
悲しみが追いかけてくるような気がして足早に逃げるようにして
走り去るのだ。
空も見ずに。
走り去るのだ。
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