東京体育館/唯一のスパイク/ノモンハン/井戸 記憶の断片
四谷駅から千駄ヶ谷駅までの総武線。
目指すは駅前の東京体育館の200mトラック。
団体もきていない朝一番。
いつもの貸し切りのロッカールーム。
なにかをたしかめるようなウォーミングアップ。
昇り切っていない太陽とアイコンタクト。
やりますか、とひとりごち。
生涯唯一の相棒のスパイクを纏う。
呼吸がきしむ。
顔がきしむ。
腕が、足が、身体がきしむ。
焦燥感と、あとは速くなるだけという身勝手な楽観と。
疾走している時のスパイクとの一体感。
インターバルの時のスパイクとのちぐはぐと。
水を飲みに行く際のコンクリートに鳴るスパイクのピンたち。
水をほおばり、不規則に叩き付けられる水のリズム。
ストップウォッチを押したらそれが確実に時を記憶する確実性よりも
ともかく、ゴールまで走り切る所作の必然がいまでは不思議で。
きしみから解放された身体のけだるさと正午過ぎのけだるさのマッチング。
汗まみれのTシャツと。
それを入れるBEAMSのショッピングバッグ。
駅前のモスでたのむチリドッグ。
ねじまき鳥クロニクル。
ノモンハン。
井戸のエピソード。
特に実りのない充実感。
いや、充足感。
その時、時は太陽と月と地球の有様でしかなく。
その時、今考えると不思議なほどに時は自分の人生とはリンクしていなかった。
速くなるために走っているのに未来に関する全てが希薄で。
外苑前まで歩き、リブロで本を物色する習慣。
一番人生でコーラがおいしかった頃。
走った距離と積まれてゆく本だけが僕の実在を証明するアリバイで。
それだけが僕のアウトプットとインプットだった。
誰に向けたものでもなく。
強く願うわけでもなく。
それが全てだった。
それはそこにみたされており。
そして、それしかなかった。
そして、そこにしかなかった。
今、ぼくのまわりにはそれはない。
ないからきっとこんなふうに愛でる事ができるのだ。
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