声で触れる、言葉を触る。
ある人は
自分の声を肉体の一部と感じると。
自分の口から飛び出たその想いの波動は
飛び道具なんかではなく
自分から切り離された単なる空気の振動などではなく
言葉という触覚器を使って相手に触れているようだと。
見えない手で
「愛している」
と、髪をなでる。
なんて艶かしい。
なんて敏感な。
きっと、言葉をそう意識することができたら
やさしい言葉にはほんとうにやさしさが宿り。
悲しい言葉にはほんとうに悲しさが宿るのだ。
それとは別に
僕が好んで使う道具に、ほら、今ここにも。
言葉、文章というものがある。
それは相手に触れられない。
そうではなく
その言葉は、想いを具現化し、自分の外に保存できる。
それは僕の分身のようなもので
それを
僕は触る事ができるし
相手も
それを
触る事ができる。
それは
ある時は浅ましき自慰であり
またあるときは誰かとの交渉にもなりえる。
それは
性交渉よりも
ある種快感を伴うかもしれない。
性と性の掛け合わせよりも
その言葉を同時に愛でる、感度を持ち合わせた人の掛け合わせは
圧倒的に希有だからだ。
だけれど
それにしたって、
僕の発する言葉たちは、いつだってわかりずらく、いびつで。
人はどんな言葉だって
産み出せると錯覚していたけれど
僕の発する言葉たちは、いつだって不可解で、矛盾に満ちて。
だけれど
必死に孤独に耐え
今日も誰かを待っている。
誰かに触ってもらえる、言葉に触れてもらえるのを
今日も陰湿に待っているのだ。
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