共感は周辺、空虚はその中に、悲しみはその頭上。
仕事でのどたばたがすぎ、帰途。
携帯が鳴る。
おそるおそるながめると、懐かしい名前。
きっと着信履歴が1万回分あってもでてこないような。
懐かしい女性から。
数日前にも、別の懐かしき女性からメールがあり、
なんですかね
冬だからでしょうか。
「元気?」
「時々元気で、時々元気がなくて、たった今、電話している僕は元気。」
「ところで、そっちはひどいね、その声で元気だったら
持ちうる元気自体が元気ないんだな」
「う〜ん、そんなのかな」
だいたい、僕に電話をかけてくることで、
そのへこみ具合がわかる。
切羽詰まった緊急の用事であれば、もっと身近で状況がわかるヤツに
連絡をとるはずだ。
そういうことなら、「原因ー結果」をシェアできる人員としては僕は不適切だ。
僕には今、彼女の診察もできなければ処方もできないのだから。
もっと軽い感じだったら飲み友達で十分だ。
誰かに切られた切り傷でもあるまい。
それはぢくぢくくるタイプのヤツだ。
レントゲンでもわからないような。
そしてそれは
積極的に解決する、というものでもない。
そいつは影のようなもの。
古今東西、影を切り離して幸せになったなんて物語は聞いた事がない。
「ずっとなりたいと思っていたものに
ほんとうになりたいのかわからなくなったわ」
それは、きっと彼女の今、の状況に関係しているだろう。
だけど、それがメインではない。
影の構成要素は、
全てが原因であり、全てがそれに付随する、そしてその付随物全てが原因。
確実に言えることは
彼女はこの電話で、その正確な自分の状況、気持ちなんていう彼女の中身を
表現できないだろう、ということ。
それだったら、僕に電話してきた理由もわかる。
僕にできることもなんとなくわかるんだ。
シェアすること。
お互いの時間をシェアすること。
それは時間の長さでもなく質なんて大層なものですらないかもしれない。
本人がわからない悲しみに
本人がわからない怒りに
本人がわからない不安に
寂しさに
切なさに
勝手なこちらの周波数で感じ取ってはいけない気がする。
そんな悲しみに僕の悲しみをぶつけてみても
そんな怒りに僕の怒りをぶつけてみても
そんな不安に僕の不安をぶつけてもても
ぼくの寂しさを
ぼくの切なさを
その中にあるのは空虚でしかないんじゃないのか。
「ありがとう、もう大丈夫。なんだか元気になったみたい。」
彼女はそう告げる。
そんなわけはない。
ただ、僕らはこんな会話の締め方をそれくらいしか知らないだけなのだ。
「元気になったよ」って。
それが痛いほどわかるから
「いや、今晩は沈んだままだな、賭けてもいい。
美味しいお酒でも、不味く飲んでなんとかやりすごすんだね、ヒヒヒ」
と、軽口を軽い調子で発してみる。
にしても
ホントウに状況をしらないという彼女との距離と
昔一緒にいた時との時間の隔たり
を
それが大人になるということなのかと
いたたまれなくなり
僕はタイミングよくやってきたバスに駆け込む。
その周辺から、逃げ出すように。
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