不可思議
完璧な光というものがあるらしい。
完璧なのだ。
純粋であり。
それは起源とも呼ばれる。
それは光自身しかしらない。
僕らが浴している光と呼ばれるものは
光のカケラだ。
光の起源と、そう、呼ばれるものが全方位に投げかけた光の飛礫が。
大気と時に戦い
大気と時にじゃれあい
時間と遊び
時間と共に
そのカケラが僕に降り注ぐ。
僕はそれを光線とはとらえない。
光のカケラがとめどなく降り注ぐ、そう意識していたい。
これは誤謬を含む幼稚な表現だけれど
それは
光の雨のように。
僕の顔をぶつ。
降り積もった光のカケラが僕の周囲を、この部屋を明るくしている。
ふとそれに触れられそうな気がして、親近感を覚える。
手で掬うと、両の掌にやまもりになっているそんな錯覚を覚える。
耳をすませば、それが降ってくるそんな音が聞こえてきそうで。
それはすごくサラサラしている。
でも、砂みたいに靴のなかに紛れ込んだって不快じゃないし
じゃりじゃりしていない。
これまでに、地球上に何粒の飛礫が飛来したのだろう。
・・・
完璧な光というものがあるらしい。
それは暴かれることはない。
それは想像するしかない。
その想像の仕方は
あらん限りの世界を思う事。
世界のすみずみまで。
光が注ぎうるすべてを。
それは、
広さを思う事、高さを思う事、深さを思う事。
時間を思う事。
ああ、もう、想像の域をこえちゃうよ。
ああ、そうか、だからだ。
時の遥か彼方中国の元の時代から。
人は数の奥行きの一番最果てを無量大数といった。
そして、その一つ前を
「不可思議」という単位にした。
きっと、光を思ったに違いない。
世界のすべてを想像したに違いない。
これまでの世界を
これからの世界も
世界は不可思議で。
それは悲しいことではない。
個の矮小さを嘆くのではなく、世界の豊かさを誇れる意識だ。
そんな楽観がそんな単位を名付けることができた由来なんだ。
これからも世界に光のカケラは降り積もり
僕はずっと純粋な光を見る事はないだろう。
だけれど
僕はあなたに降り注ぐ光に感謝し
感謝した証とばかりに見とれるのだ。
光がかたどってくれた姿に
光が形作ってくれた世界に
感謝した証とばかりに見とれるのだ。
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