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2009.02.25

契ることが目的で守ることなんて二の次なのさ。





「心中」

心中(しんじ(ぢ)ゅう)は、相愛の二人が一緒に自殺すること。
情死。
転じて2人以上で一緒に自殺することにも用いる。
正確に意訳できる英単語はなく、大和民族独自の死生観と言われる。
心中とは他人に対して義理立てをする意味で用いられていた
(心中立。しんじゅうだて)が、江戸時代には、
刺青や切指等の行為と同様に男女の相愛を意味するようになる。

心中立には、
誓詞(せいし)、
放爪(ほうそう)、
断髪、
入れ墨、
切り指、
貫肉
があった。


日本独自といえば「粋」が有名だが、
「心中」もそうらしい。

江戸時代社会現象にもなり、禁止令もでた「心中」に
いたく共感するのは
その生をもって思いを云々する、というところではない。

それは

closedな関係を欲している

というところだ。

友達の友達、その友達なんていうふうに広がって行く友好関係を陽
とするならば、こちらは陰。

僕は確実に陰の関係に重きをおく傾向にあるし
それが強まっている自覚もある。

その2人逢う以外になんの生産性もない関係に憧れて、
ともかく、約束を契りたくて
血を流し、涙をながし。
それが蔓延する社会。

そんな社会が危ういかというと、実はそれでも飄々と生き延びる
生命力も持っている。

契りは契約ではなく、
契りは将来の心変わりを罰する番人ではない。
契りはまさにその交わした瞬間の心の証明、ただそれだけである。

だからこそ、
未来のどんな悲劇だって

傷つき、傷さへも糧に。
涙で、苗を育て。

誇りになんて思わない。
でも、
ぢっと自分の手をみてその血潮を思うとき
自分の中に同じ物が流れていると
しみじみ思う事がある。

それがなにかの証明であるかのように。





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