« 2011年10月 | トップページ | 2012年5月 »

2012.04.15

大人になるって


僕の兄は


男である前に、僕にとっては兄である。
僕が生まれる前から、彼は僕の兄である。


それは


母にも
父にも


言えること。


女性である前に
男性である前に


母は僕にとって母であり
父は僕にとって父である。


大人になるって
どういうことか


唐突だけれど、上に話したことが1つのヒントとなる。


自分にとってある人が
自分の人生に入り込んで来る瞬間ってのがある。


それは、けれど、その人が闖入してくるのではなくって
実は自分がその人に入り込んだ瞬間のことを言う。


たまたま出会ったその時、その文脈から
関係性からその人を外してみて、
その人の過去や未来を想ってしまう。


なんだろう、ただすれ違うのではなく
そう想ってしまったら、自分の心のどこかにその人のことが刻まれ
その人のスペースができてしまう。


大人になるって
どういうことか


それは
兄に母に父に、祖父に祖母に、
彼らのために心のスペースが出来上がることなんじゃないか
そう思う。


兄を兄としてではなく
同世代に生きる1つの個性として
母を母としてではなく
僕らと同じように、すこし早く生き抜いてきた女性として
父を父としてではなく
僕らがこれから体験するかもしれない、喜びや苦しみを知っている先達として
見られる瞬間を持つこと


それが大人になるってことの1つなんじゃないかって
何故だかふと思う時がある。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.04.08

苦労

「苦労なんて知らないじゃん?」
そう言われて一瞬むかっとする。

それから、ちょっと首をひねり、考える。
思い出す。
今までの色々を。

冷静に思い返すと、いささかそれぞれパンチがない。

さしせまった切迫感ってものを取り払ってしまうと
日常で起きる苦労話なんてのは、
そう、
たいしたものではない。

そもそも「苦労ってのがなんなのか知らない」ということだ。
「苦労」も慣れてしまえば作業になる。
生きているってのはなにかを常に経験することだし、
「苦労とはすなわち〜である」と定義付けたとしても、
生きているうちにそれは再定義が必要になる。

苦労を知っていると思っていると
苦労が想い出話に変容していることに気付かなくなる。

そう考えると
苦労から常に解放されている気分になり、
「苦労を知らない」と突きつけられたモノに対して

自然と笑みで返すことができるようになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.04.03

『The Road』ジョン・ヒルコート (監督),コーマック・マッカーシー(原作)


ROAD=道はどちらかというと東洋的思想に属します。
「すべては道半ばである」。
柔道しかり、剣道しかり、茶道etc。
道は決して目的地ではない。
その道を行くということは、道半ば、完成されない道程であるとの宣言でもあります。


世界が滅亡した先のものがたり。
父と子はただひたすらに道なき道を南へ。
人類は自ら道を放棄するか、他人の道を汚し、犯し、殺すか。
そんな世界が舞台です。
「南に行き、海に出れば全てがかわる」
父はそう子供を諭し、歩み続けます。
でも、そんなこたあない、そうわかっている。
でも歩き続ける。
道を歩くこと、それはここでは実は未来をサスペンドすることでもあるのです。
大半の人々が命を断つ中、歩き続ける。
未来を希望し
未来をサスペンドする。
これって「生」そのものなんですよね。
未来のために生き
現在のために生き。

そして、父は自分が生きている間に事態が好転するなんて望んではいない。
辿り着くべき何処かへ行けるとも実は思っていない。
でも、希望を持っている。
自分個人では到底叶えられそうもない、なにか、未来を
彼は息子に見いだす。
自分がすでにそのとき、地上に存在していないだろう未来に。
きっと実際に自分の死を意識しているわけじゃない。
でも、本能的に、希望というものを明確に約束された未来ではなく
馨しき予兆を彼は信じている。

道の先には目的地がきっとある。
そして歩いている当の本人はそれがどこだか知る由もない。

世紀末、この世の終末と道が
こんなに相性の良い物だとは。。。。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2012年5月 »