2006.08.09

『国会議事堂アートと老人と子供のポルヶ』〜気づいた人からはじめるしかない〜

金の回転を第一目標とした創作には、
なるべく新しい情報というものが必要不可欠であり、
回転のサイクルが速くなればなる程、
情報を収集してパクるだけが”創作”という単語に置き換わり、
もはやそこには真の影響など生まれる余地は全くない。
もし影響された対象の根っこの様な所までたどり着ける余裕があるのな
ら、そこから微妙に枝分かれして元のものとは違ったものが
生まれる可能性も出てくるのだが、
そう気づいた時には人間として一番大切な好奇心など色あせてしまって
いる。。。
という事が今の東京に言えると思うのだ。
                
                         大竹伸朗

それは

作り手に問題があるのか
消費者に問題があるのか

作り手と消費者は需要と供給の連鎖であり
ぼくらがうまれた現代はすでにその連鎖の中にある

なので上記の問いは不毛であり

気づいたやつから、そんなのなんかいやだな
と思ったやつから

そいつが作る側にいようと、消費する側にいようと

はじめなくてはかわらないもんなんだ

それはけっしてかっこよくもなく
そんなことに気もとめない人からみたら
頑固でいやな感じかもしれない

それでも、そんないやな思いという対価を支払っても
変えたいとか実現したい

とか思うことそれが青臭く言えば夢だったりするのだと
思う。

そんなものに気づき、もちろん自分の気づきと
気になるあの人の気づきも、育てていけるとこに

ここが なれ ば よい 

と思うのです。

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2006.04.23

僕は本を読んで”負ける”事が好きだ。

『ぼくは、インドでヒッピーと出会うたびに、劣等感に悩まされ続けたのである。
 インドのようなところで<生>の行為のみをよりどころとする人間の前に立てば、
 行為をいつも表現に結びつけようとする者は、まことにぶざまである。
 ぼくに関して具体的にいうなら、ヒッピーに向ってカメラを向けるときの耐え
 がたい屈辱感がそれを示す。
 

          ・・・

 ヒッピーに限らず、世界のどこにでもいる若者の多くは、死の進行中、横道に
 それた野ネズミのように、なんとなく中途半端な気持で会社に行ったり、学校
 に行ったり、絵を描いたり、文を書いたり、写真を撮ったり、音を出したりし
 ているのではないだろうか。
 技術的活動はいうにおよばず、芸術的行為さえもしらじらしくて見ていられな
 い今日、あの荒涼とした土地に、ひたすら行為を求めているかに見える若者の
 中にも欺瞞が見い出されても不思議じゃない。』 

                         『印度放浪』 藤原新也

藤原新也はかの地で23の時にこうやって”負け”を味わった。
それは我らの国に対する憤りでもなく、事実であり、若者特有の、いや、心に若
さを備えた者の悟りであると言える。
僕らが感じる漠とした疑問。
それを彼は<生>の国から輸入してきた。
生と死のコントラストがまばゆい印度より。
死という終着駅がぼんやりとした現代、その途中の駅、すなわち生もぼんやりし
ているのか。
しかし、いくらぼんやりしていても生と死が途切れることはない。
見えなくなることはない。
だから彼の言葉にある真実が、ページ、ページがぶつかってくるのだ。

僕は本を読んで”負ける”事が好きだ。

”負ける”ってことは認められるということだからだ。

相手を、自分を認められるからだ。

そこから築けるものがあるからだ、気付けることがあるからなんだ。


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2005.07.24

Between The Lines Vol.7

本を紹介するメールマガジンを発行しています。

Between The Lines Vol.7 発行

今回はウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』です。
いわずとしれたサイバーパンクの金字塔。

書き忘れました、大事な注意が。
作者近影は見ない方が身のためです。。見ない方が。。(笑)

本文は↓画像をクリック

sunflower

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2005.07.03

その膨大さに

沢木耕太郎さんの『シネマと書店とスタジアム』の後書きにこんな台詞がある。

「こういう小説が、まだ読んでいないまま、眼の前に無数にあった少年時代が、
羨ましくてならなかったのだ。」

これはある種、幸せな歳のとりかたの見本のようなものだ、と思う。
素晴らしいものに出会ってしまった感動と衝撃。
それをあますところなく、そして、それに触れずに表現している。

もう一度反芻したい、何度でも味わいたい、そんな瞬間を持てる人生は素敵だと思う。

決して、子供に戻りたいのではない。
現在を否定して過去に戻りたいのではないのである。
人生をリセットしてやりなおしたいという逃げではないのである、この台詞は。
何故かって?
それは、そこに戻って、別の道に進みたいわけではないから。
また、同じように同じものを読み、見てうなる、それだけが望みなのだから。

片や、僕はというと
もうすぐ三十路になるのに

まだまだ知らない世界があり、まだまだ知りもしないマスターピースがごろごろ
しているという現実に、その自分がしらない世界の膨大さを目の前に、

人生の有限を感じ、その人生を少しでも長く持っている少年時代の自分を
羨ましく思ったりするのです。

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